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大戦争に直面して(8)

今年の西瓜を食べた

 昭和20年(1945年)6月下旬、迎陽飛行場で、第53航空師団長の査閲があり、7月初めに第5航空軍の合同演習があった。迎陽で合同トレーニングを行なっていた12隊のうち2隊が参加し、仁川沖の仮想敵への攻撃に出た。目的地へ向かうスピードが遅い“黒トンボ”を援護する高速の四式戦闘機は苦労したことだろう。
 これで訓練は終了し、7月半ばから山中の掩体壕(えんたいごう)に自分たちの飛行機を隠して、整備と待機の日々となる。
 日本の本土への空襲は、ますます激しく、6月5日には神戸の我が家も焼失していた。敗色濃厚の戦勢のなかで、無為に過ごす焦燥感は胃が痛くなるほどだった。
 そんなある日、海州に住んでいる河野としえさんが、西瓜(すいか)を持って掩体壕まで来てくださった。仲間の後藤明が拓殖大学出身で、河野さんのご主人の後輩に当たることから、川上隊は休日になるとお宅を訪れ、ご馳走になっていたのだが、何かの折に「川上隊長が今年の西瓜は食えないと言った」という話をしたのを夫人が覚えていてくださったらしい。
 大きな母心を、ただただありがたいと思うのだった(いまも夏に西瓜を食べるとき、夫人と後藤たち仲間と飛行機のそばで西瓜を囲んだ光景を思い出す)。
 8月に入ると第1線基地へ展開する。川上隊は朝鮮半島、南西端の本浦と知らされて、ジュバン、跨下(こした=アンダーパンツのこと)、越中フンドシまで、肌につける新品と、菊のご紋章入りのタバコを一人3本ずつ支給された。海州の女学生から「必沈」と血で書かれたハチマキをもらった。

出陣式、終戦、南へ移動

 8月9日にソ連軍が満州(中国東北部)へ侵入した。ソ連を通じて講和を申し入れていたから、満州にいる飛行隊は反撃もせず、朝鮮半島北部へ撤退するだけだった。
 そんな騒然たるなかで、8月14日に12隊のうち2隊が第1線基地へ移ることになって、出陣式まで行なったが、事故があって繰り延べ。その翌日の8月15日正午、終戦の詔勅(しょうちょく)をラジオで聞いた。
 いわゆる本土決戦(大本営では決号=けつごう=作戦と言った)で第5航空軍が受け持つ朝鮮海峡一帯を第一戦域と予定されていた私たちは、死ぬと決まっていたのが、急に「戦争はやめた」と言われて、しばらく途方にくれた。「死ななくてもいいのだ」という実感は、かなり時間が経ってからだった。
 8月下旬になって、朝鮮半島南部へ移動命令が出る。合同演習をしてきた12隊72人は同じ飛行場にいた少年飛行兵の教育隊と一つになって、鉄道で鳥致院へ移った。
 私は自分の飛行機で数機仲間と太田へ飛び、そこから鉄道を利用した。腰部のなにかの傷口が化膿して、長時間の列車移動よりもと、黒トンボを選んだ。
 この日、8月26日以降は、日本軍の飛行機はすべて飛ぶことを米軍から禁止されていた。


雨の校庭で少年とボールを蹴る

 牧歌的な田園風景の鳥致院での生活は、まず小学校でしばらく暮らし、次いで内地へ去る人の農地を譲り受けての暮らしとなり、米軍への兵器引き渡しも順調に終わった。
 その激変するなかでのある日、雨の小学校の校庭で、土地の少年の一人が、大きな板塀(戦場競技用で2メートルほどの高さがある)を相手に、ボールを蹴っているのを見た。
 近づいても少年は逃げる気配はない。ボードに当たってははね返ってくるのを私が蹴ると、リバウンドしたボールはきちんと少年のほうへ転がった。少年もボードに蹴り返す。二人は小雨のなかで、30分ばかり、ただ黙ってボールと遊んでいた。雨が強くなってくると、少年は私のほうを見て、ボールを抱えて去っていった。
 内地へ帰れるものなら帰りたいと思うようになったのは、このときからだった。少年飛行兵の教育隊長の瀬川少佐の智略で、食糧も衣料も持ち、越冬準備までしていた私たちに、帰還命令が出たのは9月末。釜山まで貨車で移動し、連絡船で山口県の仙崎港に上陸、10月10日過ぎに京都の疎開先にいた母と妹の元へ――。兄はすでに帰っていた。
「生きて帰ってきたか、10月×日に試合をするから、太郎兄と一緒に来いヨ」
 同じ陸軍航空の各務原から、8月に復員していたノリさん(則武謙)からハガキが来た。そう、私たち兄弟のサッカー靴や書物を預かってくれた垂水(たるみ)のノリさん宅は、空襲を免れていた。
 大戦争は終わり、私たちにサッカーが戻ってきた。昭和20年秋。まだ外地にいる仲間もいたが……。


(週刊サッカーマガジン2000年11月15日号)

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