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vol.1 イタリア(上)


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 サッカーは世界のスポーツです。極北のバフィン島でも、熱帯のニューギニアでも、ヒマラヤの高地でも、人はボールを蹴り、ゴールを攻め、守ります。そしてまた、チャールズ皇太子も、ミッテラン大統領も、バンコクの下町っ子も、ブエノスアイレスのお年寄りも、等しく、マラドーナに熱狂し、プラティニやリネカーに拍手を送ります。  そんな世界の、それぞれの人や国や土地のサッカーを見聞し、語り合ってゆこう――という連載です。  第1回は、1990年のワールドカップ開催国となるイタリアです。
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軍艦ルノワルト号

 港町・神戸で育った私には、イタリアといえば、少年時代に聞いた、軍艦の乗組員との試合の話を思い出す。
 昭和9年(1934年)の4月に入港したイタリア艦「ルノワルト号」からの試合の申込みをうけて神戸一中(旧制)の生徒達が2度試合をして2−6、2−9で2度とも大敗した。16歳くらいの中学生が、ヨーロッパ人の大人の船乗りを相手にするのだから負けるのも当然だろうが、私より6〜7歳年長の、この時の先輩達は、当時、すでにストライカーの素質を見せていた二宮洋一さんをはじめ、数人がのちに日本代表となり、中学生ながら近隣では強いと評判だった。それだけに大敗は強いショックだったらしく、後輩の私たちにも、この話を時々してくれた。そしてそれが、単に体格の違いだけでなく、技術の違い――例えば彼らのシュートはバーを高く超えることはない、彼らはボレーを蹴るのにもボールの上から叩いていたなどの指摘が面白かった。

 神戸では外国船や外人クラブとの試合もたいていは経験するが、学校の部史を読み返してみても、このイタリア軍艦ほどの強い印象を残した船乗りチームはなかったようだ。昭和11年(1936年)、私が小学校6年生の時のベルリン・オリンピックで、日本が優勝候補の一角にあるスウェーデンに3−2で勝ち「ベルリンの奇跡」とヨーロッパを驚かせたが、2回戦(準々決勝)ではイタリアに0−8で大敗した。イタリアは、準決勝でノルウェーを延長の末2−1と破り、決勝の対オーストリアも2−1で勝ってオリンピック・チャンピオンになっている。
 このチームは右ウイングのドリブルがすばらしく、日本の守りも、もっぱら個人技で崩されたらしい。


フィレンツェの歴史的カルチョ

 そんな少年の頃の聞きかじりとは別に、イタリアという言葉とともに、まず頭に浮かんでくる風景がいくつかある。その一つが「カルチョ・ストリコ・フィオレンティーノ」(フィレンツェの歴史的フットボール)。今から8年前の1980年6月11日、ヨーロッパ選手権大会の開幕試合、西ドイツ対チェコスロバキアの試合前のショーとして見るチャンスがあった。ゆったりとしたラッパと、小太鼓にあわせ、一群の武士達がスタジアムに入場するところから、この競技ははじまる。

 1836年にイングランドのFA(フットボール・アソシエーション)が創立され、世界中に現代のサッカーが広まってゆくのだが、それより古い時代に、世界各地で、このフットボールの原型ともいうべきボールゲームが行なわれていた。メキシコでは一人でゴムボールを蹴って山野を走るものもあり、神事として特別のコートで行うものもあった。
 古代ギリシャでも、古代ローマでも、一つのボールを同数の二つの組が争奪戦を演じる競技――というより戦闘訓練もあった。
 ルネサンスの都として名高い、フィレンツェの町にも、ローマ時代からのゲームが中世まで続いていたらしい。そして、16世紀(1530年2月17日)、皇帝カール5世の軍に包囲されていたフィレンツェで、市民の士気を高めるために同市のサンタ・クローチェ広場で、このカルチョの試合が行なわれた記録が残っている。18世紀まで続いたこの催しが、しばらく廃止されていたのを1930年に復活し、以来市の行事として、フィレンツェの守護聖人の例祭にあたる6月に3度行なわれている。


優美、荘重、中世の行進

 入場行進は42の役柄とグループの順序が決められている。
 例えば
(1)ゴンファローネ・フィレンツェ。白地に赤のユリの花をあしらったフイレンツェを象徴する旗。小ラッパを吹く人と歩兵達に護られ、指揮棒を持った人たちに先導される。
(2)8人の治安官を警護する兵士
(3)マエストロ・デ・カンポ。黒のビロード制服を着た、大会責任者(委員長)……
 11番目にパッライオ。試合をするチームのカラーをつけ、ボールを預かる人。審判長(ジュリティエ・コッミッサリオ)と並んで歩く……

 といった調子で審判員の後には歩兵隊、鉄砲隊、騎馬の指揮官など、京都の時代祭よりは隊列は短いが、重々しく、かつ、戦闘的。16世紀の軍隊の規律と作法、命令に従行進が行なわれ、各軍の紹介が終わると、フイレンツェ政庁の布告社が『布告』を読み上げ、ゲーム開始を告げ、マエストロ・カンボが試合を始めるよう命令する。


荒々しい格闘技

 ゲームの規則では、グラウンドは長方形、横幅は縦の半分の長さ。各陣地の末端はグランドの横幅いっぱいに渡って設けられた防護柵を覆うネットによって限られる。
 各チームは27人。ゲームは60分。チームの構成は現代式にいえばゴールキーパー、バック、ハーフ、フォワードに分かれる。カルパリン砲の礼砲を合図に試合開始。敵陣のゴールにボールを入れると得点。シュートしたボールがネットの上に出てしまうと相手に半得点が与えられる。2つの半得点は1得点となる。得点のたびにグラウンドは交換し、得点を示す旗を掲げることで観衆に知らせる。もちろん得点の多い方が勝者となる。

 フィレンツェのお祭りとして、市民の広場で見るのが一番いいのだろうが、ローマのスタジアムの短縮(30分)の試合でもとても楽しかった。入場行進でタイムトンネルをくぐったような気になること、そして、その優美で堂々とした行進とは別に試合そのものは格闘競技の要素の強くでたボールゲーム。本気で取っ組み合っているのを眺めながら、優雅と荒々しさの同居しているカルチョに、スマートな美しいプレーと荒々しいファウルが表裏一体となっているイタリアの現代のスタイルを思ったのだった。


サッカーは北イタリアから

 古代ギリシャのスフェロマキア、古代ローマのアルパーストの流れを組むカルチョが18世紀まで続いていたのが、どうしていったん途切れたのか。これはフランスで、やはり「ラ・ソウル」というボールゲームがあり、イングランドのモブ・フットボールと同じようだったのが、18世紀から19世紀にさびれたのとよく似ている。このあたりの古い話は、はるかな東洋人には、いささか縁遠い。
 しかし、中世のカルチョが、フィレンツエに残っているものと同じであるとすれば、いささか軍隊の訓練的であったかも知れず、そうなれば、万事、原則づくめを嫌い、命令されることを嫌がるイタリアの人たちは、この「遊び」から遠ざかってしまうのではないか――などとも考える。

 それはともかく、こうした背景を持つイタリアへ、イングランドからFAのフットボールが伝わってきたのが1887年。まずトリノ市へ入り、ついでジェノア、ミラノへと広がる。フットボール・クラブ・インテルナツィオナーレが1890年に誕生し、ついでFCトリネーズが1894年に、そして、4番目にできたのがユベントス(1906年にFCインテルナツィオナーレはFCトリネーズと合併し、FCトリノになる)。

 イタリア・フットボール協会の設立もまずトリノで1898年に。はじめフットボールと称していたのが、1909年にカルチョと変え、フェデラツィオーネ・イタリアーナ・ジウオーチ・カルチョ(FIGC)と変える。
 この「フットボール」の協会名称に見るとおり、何ごとも、ヨーロッパ流、つまりアルプスの西、アルプスの北からの文化や風習を取り入れることの早いのが北部イタリア。
 1861年にトリノのサボイ王家がイタリアを統一し、近代国家への第一歩を踏み出したのも北イタリア、トリノとミラノが地盤だった。古いローマ帝国の頃は、北の辺境だったのが、中部、北部のヨーロッパにも文化が栄え、アルプスを超えて、豊穣なイタリアへと、時には、戦闘や占領をまじえながら、北の勢力が流入してくる。その通路にあたるトリノやミラノは、頻繁な交流のおかげで、ローマやナポリなどの南部地方とは違った気質や文化が根づいていた。そんな北イタリアにサッカーが浸透し、西から東へ、そして南へとイタリア全土に伝わっていった。


ムッソリーニとサッカー

 オリンピックにサッカーの代表チームを送ったのは1912年のストックホルム大会。このときは1回戦でフィンランドに敗れた。
 次のオリンピックは第1次世界大戦のため、1920年のアントワープ大会まで待つことになる。この大戦では、ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国に対して、英、仏、ロシア(のちにアメリカも)が連合し、イタリアも連合国側に参入する。
 戦争は勝利側についたけれども戦後の経済は苦しく、やがてムッソリーニがファシスト党を結成し、勢力を伸ばすが、それも北イタリアから始まるのだった。
 ベニト・ムッソリーニは、1922年のローマへの進軍から、政権を握り、自ら「ドーチェ(統領)となり、独裁体制をつくる。1945年、イタリアが戦場となったとき、反ファシストに殺される。独裁者として後世の評判もよくないが、少なくとも政権をとったはじめのうちは、イタリア国民の士気は高まり、生き生きとした時代もあった。
 貿易商だった私の父なども、ムッソリーニのおかげで、郵便もちゃんと着くようになり、貿易もしやすくなったと言っていたほどだ。
 1924年のパリ・オリンピックは準々決勝まで、1928年のアムステルダムでは準決勝へ進んだ。このときの相手はウルグアイ、2回連続優勝の南米の雄に2−3と迫ったのだった。


1934年イタリアW杯での優勝

 彼らの伸びる力は、1934年の第2回ワールドカップ開催となり、ファシスト政府の期待どおりに、イタリア代表は、
 ◆米国に勝ち(7−1)
 ◆2回戦の対スペインは1−1で引き分けたあと、再試合を1−0で握り
 ◆準決勝の対オーストリアも1−0で突破
 ◆決勝ではチェコスロバキアを2−1で破った。

 自分もサッカーが好きだったというムッソリーニが、肩入れしただけに、選手達のプレッシャーも相当なものだっただろう。アルゼンチンからの輸入選手、モンティら3人が、父祖の国ということで国籍を取得し、活躍したのも話題になった。

 その2年後、イタリアは、ベルリン・オリンッピックに強チームを編成して優勝する。私たちの先輩がスウェーデンと戦ったあとにぶつかった彼らは、まことに強力で技巧的だった。彼らのプレーは、川本泰三氏や右近徳太郎氏(当時の代表、いずれも故人)などから聞かせてもらったが、決勝の対オーストリア戦の模様は、ベルリン五輪の記録映画の第2部の「美の祭典」で3〜4分ばかりのシーンがあった。今でも、CFベルトーニの流麗なフェイントや、相手FBのタックルをかわし、ボールに内側への回転を与えて、タッチラインぎりぎり(ライン上)にボールをころがす右ウイング、フロッシの技術を、今でも賛嘆しながら思い出すことができる。

 ベルリンから2年後、1938年フランスで開かれた第3回ワールドカップは、ワールドカップの提唱者、ジュール・リメ氏のホームカントリーだけに、すでに戦争の足音が近づいていたけれど、大会運営はまことにフェアで、ヨーロッパは大戦前のわずかな期間、サッカーを楽しんだ。ブラジルからのボール芸術家たちが、もてはやされたのもこの時だが、前回よりも力をつけて2回連続優勝をした。


(サッカーダイジェスト 1988年5月号)

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