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番外編 20世紀の終わりに

 前号(第41回)で第2次世界大戦が終わり、軍隊から復員した私が、再びグラウンドでボールを蹴ることができるようになるところまで来ました。いよいよ戦後のサッカー復興期に入る前に、今回はレバノンでの第12回アジアカップ優勝についてです。


ボールテクニックの優越

 優勝とともに何よりもうれしかったのは、日本選手のボールテクニックが平均して、ほかのチームより高かったこと。
「戦術や運動量、頑張りは上なのに、技術はアジアでも見劣りする」とのこれまでの評価が、20世紀の最後の年に「ボールテクニックも上」と言えるようになったのは、まことに結構なことだ。
 一般的に、個々のプレーヤーの体格、体の大きさや骨組みの強さでは、日本はゲルマン系やスラブ系に及ばず、瞬発力ではアフリカ系に劣る。だから私たちが世界のサッカーで一つの地位を得るためには、勤勉、敏捷さを生かす組織的なプレーを築くことにあるが、それを成功させるにはドリブルやキープができて、パスが正確で、そのボールを受ける技術が確かで、フィニッシュ――つまりボールを相手GKに取られることなくゴール内へ送り込む足や頭でのシュートが狙い通りでなければならない。
 アジアでも中国は体格の点で日本よりも優位に立ち、アフリカ系を含む中近東勢は、速さや体の強さの点で、私たちをしのぐ。そうした彼らの長所を抑えて勝ったのは、組織プレーを生かす基礎技術が高かったからと言える。


得点力はアップしたか

 グループリーグでサウジアラビア(4−1)、ウズベキスタン(8−1)に大勝して、日本は、こんなに得点力があったのかと、国内のメディアをも驚かせた。中村と名波の二人の正確なパサーがいたこと。こちらの動き出しの速さに、相手が対処できず、そのため、シュートのスペースが生まれて、西沢、高原が落ち着いてシュートできたことが大きい。
 この二人が、決勝のサウジアラビア戦で十分に働けなかったのは、相手のマークの厳しかったことが第一だったと思う。サウジアラビアのディフェンスの背後からのプレーは、テレビで見る限りはほとんど反則で、レフェリーの見逃しが多かったように見えたが、実際に現場ではどうだったのか。知りたいところだ。
 反則承知でくる相手の挑発に乗るのも損だが、それをどうこなしてチャンスを作るか(早くサイドに開いて、受ける手もある)が、今後の課題になるだろう。


森島による数的優位

 森島の飛び出しは、自らのシュートや決定的なラストパスにつながっただけではなく、相手の守りを混乱させるのに役立った。
 日本のサッカーは、守りでも「数的優位」が原則とされているが、パス攻撃もまた「数的優位」、つまり重要な場面で相手より人数を多くしようとする、一見不可能なやり方を可能にするためには、(1)運動量を増やす、(2)だれかがドリブルで抜き去る――ことが必要になる。
 森島は驚異的な運動量のプレーヤーだが、その量とともに、ゴール前の有効なスペースへ入り込むタイミングのつかみ方、入っていくコースの取り方に非凡なものがあり、その飛び出しのうまさは、 話には聞いていても実際には、対戦してみないと理解できない。
 特に彼は中盤深くまで守備に戻る。それは意図的に相手マークをはずすために消えるのではなく“本気”で守りに入るために、相手ディフェンダーはよほど注意していないと、次の飛び出しを見失ってしまう。彼の後方に“生まれながらの守備的MF”明神がいたことも、彼の攻撃力を増した。
 稲本の欠場で、明神が中央へ回り、この組合せが崩れたのがサウジアラビア戦のマイナスでもあった。代役で出場した望月の得点が決勝ゴールになったのは面白いことだが…。


シドニー組の成長とトルシエ監督

 不参加の中田英を含めて、1977年生まれから79年生まれまでの世代。
 14歳から16歳のころに93年のJリーグ誕生に出遭い、感受性の強い成長期にいいプレーヤーを見て、伸び盛りにプロ選手となって、優れた環境で育ってきた世代は、これまでとは違った高い技術を身につけた。
 彼らを中心に2002年のチーム作りを、というトルシエ監督の考えは当然であり、そのシドニー世代と、それより上の年齢層の名波、森島たちとが、一つにまとまって成果を出したのだ。
 選手とチームの向上とともに、監督も変化する。この大会では選手の判断力が大切、としたトルシエ監督によって、“監督がすべて”のような風潮が変化するかも――と考えるのも、うれしいことだ。


(週刊サッカーマガジン2000年11月22日号)

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