賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >戦後の混乱と復興期に(2)

戦後の混乱と復興期に(2)

天覧試合と予定外のお言葉

 昭和22年(1947年)4月3日、東京の神宮競技場、当時は米軍が接収し、ナイルキニック・スタジアムと呼んでいたスタジアムに私はいた。
 全関東対全関西、1937年に始まった東と西の選抜チームの対抗戦、いまふうに言えば東西オールスターが、大戦のため1941年以降中断していたのを復活させたもの。
 好天に恵まれ、天皇陛下の御台臨もあって、スタンドはぎっしり。試合はベルリン・オリンピック代表5人を含む関東の技巧と、戦中派を主とした関西の若さがぶつかって、見応えのある展開となり、結局2−2の引き分けに終わった。
 試合の後、昭和天皇と皇太子(現・天皇)がグラウンドに降りてこられ選手たちがお見送りをしたが、そのとき急に立ち止まり、選手たちに向かって、「本日は、良い試合を見せてもらってありがとう。戦後日本の復興はスポーツ精神の振興によるもの多大と思う。どうか、しっかりやってほしい。きょうはありがとう」とお言葉をかけられた。
 まったく予定になかったことだったが、戦後の混乱の中で、国民を激励したいと思っておられた天皇が、この日の選手たちの元気な試合ぶりに思わず声をかけられたらしい。
天皇を間近で――とスタンドから、駆け降りていた私は、全関西のメンバーの兄・太郎や則武、工藤たちが涙を流しているのを見た。


皇太子さまとサッカーボール

 このとき試合中の御説明役を務めた田辺五兵衛・日本協会副会長は「試合が白熱したので天皇は、身を乗り出すようにご覧になっていた」と言った。私にはお言葉ははっきりと聞こえなかった(予定外だからもちろんマイクもなし)が、スタンドの全員の「バンザイ」に帽子を振られる天皇と、その後ろでボールを抱えた皇太子の姿、そしてその前後を警備する米軍のMPが特別に大きな男であったのを覚えている。
「皇太子さまにボールを献上するときに、宮内庁の役人が、“統制品だから受け取れない”と言い出せば困るのだが、幸いにもそういうことはなかった」とは、当日の設営係だった宮本能冬(みやもと・のと)さん(当時・朝日新聞社勤務)の話。
 この天覧試合がきっかけで、日本協会に天皇杯が下賜されることになるのだが、サッカーボールを抱えて車に乗り込まれた皇太子が、2002年のワールドカップの決勝には、天皇として御台臨になるはずだ。


京都でのサッカー発見

 この年、私は叔父の後押しで京都の繁華街、新京極の近くに小さな店を借りて商売をすることになったが、サッカーから離れることができないことを確認してしまったから、そちらに身が入るようになるのも当然。
 ちょうど京都では藤田静夫さん(現・日本協会名誉顧問)の提唱で、京都師範卒だけでなく京都の全勢力を結集するクラブチームを作ることになり、それに誘われ、京都クラブという名で国体の予選や、京阪神の3都市対抗などでプレーを重ねた。
 そのころ、京都の主力の人たちには、ボールを短いパスでつなぐ感覚は少なく、師範学校特有の大きく蹴って走る形の攻撃だったが、個人個人の技術や体力、特にドリブルやキック力の技術が高いのには驚いた。私より10歳以上年長の藤田静夫さんが、ボールをまたぐフェイントを使うのにも感心した。
 神戸とは違った環境でのプレーは、サッカーの新しい魅力であり、それがまた、自分の技術に大きなプラスになることを、実際にグラウンドの上で確認できるのが面白かった。
新京極は、映画館が多く、私には便利だった。映画といってもパラマウントのワールドニュースで、ときたまイングランドのFAカップやリーグ戦があったのを知ると、その1分か2分のために、足を運び、スタンリー・マシューズのドリブルや、ビリー・ライトがハーフバックの位置から、まるでウイングFWのように突出して攻撃に出るのを眺めた。
 年末に、西宮で全国中学校選手権(現・高校選手権)が復活した大会を見に行った。広島の高等師範付属中が、圧倒的なスピード攻撃で優勝した。FW右サイドの木村、長沼、樽谷の破壊力は抜群だったが、その一人長沼健(現・日本協会名誉顧問、前会長)がのちに東京、メキシコ両オリンピックの監督を務め、日本サッカーの推進力となった。


終戦直後の出来事

昭和22年(1947年)
◇1月 GHQ(駐日連合軍総司令部)が官公労の2・1ゼネスト中止を命令
◎4月 復活・東西対抗(全関東2−2全関西)に昭和天皇がご来場
◇4月 改正された選挙法による総選挙で社会党が多数
◇5月 片山内閣(社会・民主・国民協同の連立)成立
◇8月 古橋広之進が水泳400メートル自由形で世界新記録
◎11月 第2回国体(金沢)決勝、早大WMW2−1神戸経大クラブ
◎12月 復活した全国中学校サッカー選手権(現・高校選手権)で広島高師付属中が優勝。
    メンバーに長沼健・日本協会名誉会長、同大会出場の東京都立五中に岡野俊一郎・日本協会会長がいた。

※◇社会、◎サッカー


(週刊サッカーマガジン2000年12月6日号)

↑ このページの先頭に戻る