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戦後の混乱と復興期に(3)

早大WMWと好試合

 京都での3度目の正月を迎えたあと昭和23年(1948年)1月には、朝日招待で心に残る試合を経験した。
 この大会は、大戦前に大阪・朝日新聞社が、関西のサッカーを盛んにするため、関東の強チームを招待して関西のチームとの対戦を企画したものである。戦後は昭和22年に復活し、この年は関東から4チームが西下。2試合ずつ2日にわたって西宮球技場で行なったが、その1日目に「全神経大−早大WMW」が組まれていた。
 私が入学したときの神戸商業大という校名は、戦時中に経済大と変えていて、当時の新聞の略称では神経大となっていた(新制の神戸大となるのは昭和24年)。
 早大WMWは、早大の学生とOBの混合チーム、WASEDA MAROON(えび茶)AND WHITE(白)つまり、ユニフォームの色と早稲田の頭文字の組合せだが、この前年の第2回国体(金沢)の一般の部の決勝で、神経大とWMWが対戦して0−1で負けている。私自身は、このとき、すでに学校をやめていて、金沢へはいかなかったので、この試合は密かに楽しみにしていた。
 と言っても、試合メンバーが顔をそろえたのは、一日前だった。相手のWMWがベルリン・オリンピック代表のDF堀江忠男、高島保男、FWの加茂健(加茂兄弟の兄)のほか、戦前派の高橋英辰(ロクさん)、左利きのドリブラー加納孝、それにMFに宮田孝治などが顔をそろえると言うので、神戸の方も昭和11年度優勝メンバーの大谷一二、吉江経雄、木下勇と言ったメンバーに登場してもらった。
 試合は、シーソーゲームでリードされたのを、後半なかばに3−2にするとタイムアップ直前に加納の飛び込みで同点にされ、引き分けとなった。相当に練習もしたはずなのに、終わりごろに足の筋肉がケイレンしたから、これは久しぶりの深い芝生のためだけでなく、ずいぶん動いたからだろう。
 勝つことはできなかったが、試合後、握手を交わすとき満足感でいっぱいだった。


戦前派とともにプレー

 プレーヤー一人ひとりの個人技やチームの格からいえば、当然WMWが上だが、こちらには兄・太郎の中盤でのキープと則武謙の突破力に昭和11年組の老巧なプレーがあった。大谷一二は、その頃すでに、朝日新聞部運動部にいた大谷四郎(故人)の次兄で、ベルリン・オリンピックの選考に漏れたが、もし代表に入っていたら、日本の攻撃はさらに良くなっていただろう、と後々まで言われた名選手。この試合では、前半で膝を痛めて動きは鈍ったが、美しいフォームでのドリブルに、スタンドがどよめいたほどだった。
 WMWには、私の中学時代からの仲間、岩谷俊夫やDFの岡田吉雄などもいた。昭和17年に私が大学予科に入ったとき、兄や則さんや「ケツさん」(芦田信夫)たちが、いずれ関西のトップになって早稲田や慶応に拮抗するチームをと言っていたのに、私は途中でその計画から抜けてしまったが、6年目に、こうした形で充実感を味わえるとは…。


復興は進む、だが損失も

 京都での小さな店の経営は楽ではなかったが、学校を離れて自由な気持ちでサッカーを見たこと。そしてこの朝日招待だけではなく、ときには全京都、ときには全神経大、ときには全関西、あるいは関西OB選抜といった試合や練習で、ベルリン組とその少しあとの世代、いわば戦前の最盛期の選手たちと、いつしかボールを蹴ったのはありがたかった。
 山を眺めるのに、こちらの高度が上がるほどその山が大きくなるように、かつて中学生のときに見た先輩たちも、こちらが大人になって一緒にプレーをしてみると、あらためてその“年期”の入った技、積み上げたテクニックを知るのだった。そうした名手のなかに戦傷や、過酷な戦場での消耗のためピッチに立てない人もいた。
 そしてまた、右近徳太郎さん(ベルリン五輪代表)を戦場のブーゲンビルで失ったことは、何より悲しく残念だった。復興が進み始めたサッカーだが、損失の大きさも少しずつ見え始めていた。


終戦直後の出来事

昭和23年(1948年)
◎1月   朝日招待、全神経大3−3早大WMW
◇1月   帝銀事件(行員12人毒殺)
◇5月   イスラエル建国宣言、パレスチナ戦争
◎5月   第1回全国実業団選手権大会開催
◇6月   ソ連がベルリン封鎖
◇6月   福井大地震
◇7〜8月 ロンドン・オリンピック大会開催
◇8月   大韓民国樹立宣言
◇9月   朝鮮民主主義人民共和国成立
◎10〜11月 第3回国体(福岡)
◇11月   極東国際軍事裁判(東京裁判)判決
◇12月   中共軍が北京に入城
※◇社会、◎サッカー


(週刊サッカーマガジン2000年12月13日号)

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