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番外編 鹿島の優勝に創設J参入の決断を思う

 チャンピオンシップの第2戦に勝って、喜び合う鹿島のイレブンを眺めながら、93年のJリーグ初年度ファーストステージの初優勝以来、このクラブの8シーズンの努力と、クラブ創設にかかわった人たちの決断と苦心を思った。
 鹿島の前身は、住友金属工業株式会社のサッカー部で、そのサッカー部が昭和22年(1947年)に、同好会としてスタートして、昭和31年(1956年)には正式な部(住友金属蹴球団と呼ばれた)となったのだった。
 大阪を本拠とし、3代目の監督には、この連載の第22回にも登場した皆木忠夫(神戸一中40回、昭和13年全国優勝)が務めていたこともあって、知人の多いチームでもあった。
昭和48年(1973年)に日本サッカーリーグの2部に入ると、2年後には強化のために鹿島町にチームの本拠を移転し、10年後には1部に昇格した。
 ただし、ここで優勝するまでには至らず、1部と2部を往来していたが、プロ・リーグ設立の機運の高まりにあわせて、平成3年(1991年)、株式会社鹿島アントラーズを設立して、Jリーグに参入したのだった。


社長の決断と専用スタジアム

 当時、日本リーグの2部であり、しかも鹿島町という小さな町をホームタウンとすることで、前途を危ぶむ声もあった。
 しかし、川淵チェアマンの「ナイターのできる屋根つきスタンドのスタジアムを備えるのならば認めよう」との条件をクリアし、さらにブラジルからジーコを招いて、チーム強化に当たらせ、93年の開幕シーズンのファーストステージ優勝を遂げた。
 その優勝によって、地域住民の求心力が高まり、鹿島は初期におけるJリーグの一つの象徴、専用スタジアムでの歌声と旗と大声援は、まさに「ホームタウン」。日本に新しく生まれた楽しみ、スポーツ文化となった。
 アマチュアの住友蹴球団から、鹿島アントラーズへの転換を決断したのが、当時の新宮康男(しんぐう・やすお)社長(現・名誉会長)。神戸一中44回卒業で、サッカー選手ではなかったが、故・岩谷俊夫(連載30〜36参照)と同窓――。部下であった下妻博(しもづま・ひろし)現・社長たちの企画を取り入れてのゴーサインだった。
「川淵チェアマンから出された条件に合ったスタジアムは、茨城県が作ることで解決しましたが、さて始めるとなると、毎年10億円くらいの赤字を覚悟してくれ、と言われました。万が一そのようなことになれば、会社のほかのスポーツ活動停止まで考えました」という。
 初年度の優勝で万事好転したが、のちに関経連の会長も務めた実力者の推進がなければ、今日の鹿島はなかったであろう。
 新宮社長の決断の背景には、日本協会副会長でもあった3代前の社長、日向方斉さん(故人)以来のサッカーへの思い入れがあったのかもしれない。
 日向さんは、昭和5年(1930年)極東大会代表のセンターフォワード篠島秀雄(第13回に掲載)と、東京高等学校でのサッカー仲間であったのだから…。


小笠原のFKとビスマルク

 鹿島の試合を見ていて楽しいと感じるのは、戦う気迫と技術アップへの取り組みが、一つひとつのプレーに表れていることである。彼らの見事な守りの組織、攻めのパスワークには、常に個人能力の進歩が加わっている。
 その表れが、チャンピオンシップ第2戦、前半の小笠原のFK。エリア外からの右足のカーブシュートは右ポストに当たって得点にはならなかったが、小笠原が「自分に蹴らせてほしい」と主張し、ビスマルクに代わって蹴ったところがポイント。
彼は「練習でも、うまくいっていたから、自信があった」と言っていたが、その能力を認めた名良橋が、「彼に蹴らせよう」とアドバイスしたとのことだった。
 ビスマルクの技術の高さは、V川崎と鹿島の各4年間で実証済みである。この日も随所でボールキープと、パスに非凡の技をみせたベテランに、21歳の小笠原が自己主張できるほどの自信を持ったということは、非常に大きいことだ。
 小笠原本人が「せっかくのチャンスに、点を取らないとダメ」と、自己批判をしていたけれど、このような姿勢が鹿島の選手全員の能力アップへとつながり、かつてはJリーグで別格に見えていたビスマルクの技にも、迫ってくるようになったのだといえる。
 Jのスタートに、しゃにむに仲間入りして、8年の堂々たる実績を積み上げた鹿島。21世紀も小さな町のビッグクラブとして、歩み続けてほしい。


(週刊サッカーマガジン2001年1月3日号)

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