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戦後の混乱と復興期に(5)

原爆の地でサッカー

 大戦が終わって4年、戦災地にも家が増え始め、サッカー界も、“再開”から“復興”へ動いていた。
 神戸経済大学(現・神戸大)のOBと学生のチーム、全神戸経大が東洋工業の招きで広島を訪れたのは、昭和24年(1949年)6月。関西との交流による広島のレベルアップをという企画だった。当時はオート3輪車(バタバタと呼んでいた)が主であった工場内に、立派なグラウンド(芝生ではない)が、備わっていたのと、万事不便ななかで、会社の迎賓館での心のこもったもてなしを受けたことに感銘を受けた。
 1938年創部の東洋工業には、戦前の慶応の黄金期の小畑実と、後にこの会社の社長となる山崎芳樹が活躍した。この試合の次の日には、全広島とも対戦。2年後スポーツ記者として同業になる河面道三がFWでプレーしていた。全神戸経大がどれほどの刺激になったかはともかく、一発の原爆で焼け野原となった広島に、サッカー復興への情熱を見たのはありがたい経験だった。1960年代後半に日本のトップチームとなる東洋工業への私の思い入れも、このあたりが伏線なのかもしれない。


空母ユニコーン、田辺製薬

 次の昭和25年(1950年)、大戦で中断されたワールドカップが6月にブラジルで開催され、20万人収容のマラカナン・スタジアムの巨大さが話題となった。ただし、日本ではまだ正式の対外試合はなく、英国極東艦隊の旗艦・空母ユニコーンの乗組員との親善試合があった程度。それでも、関西での試合でスピードを身上とする関西学院が、横一線の空母チーム3FBを突破できず(オフサイドトラップもあり)敗れたのに対し、全関西は中盤でのキープと緩急ある攻めで崩したのが面白かった。
 朝日新聞社後援の第3回全国実業団選手権で田辺製薬が初優勝したのもこの年。兵役によって選手生活を中断されることのない時代を見て、企業チームによるサッカーのレベルアップを考えた田辺五兵衛社長(1908−1972年)が、他のチームの目標となるチームづくりを始めて3年目だったが、その狙いどおり、加藤信幸(東大)、宮田孝治(早大)、賀川太郎(神戸経大)、鴇田正憲(関西学院大)といった日本代表を揃えた田辺は、6年連続優勝、94戦92勝1分け、1抽選勝ちの記録を残し、昭和20年代の一つのモデルとなった。ただし、天皇杯には出場しなかったため、「出れば勝つだろう」と言われながら、そのタイトルはなかった。


朝鮮戦争、京都市長選挙

 6月に朝鮮戦争が始まり、38度線を破って一気にソウルを攻略した朝鮮人民共和国の軍隊に、韓国軍と米軍は、朝鮮半島南部に押し込まれてしまった。軍隊時代の仲間から、後方基地となった北九州の模様を知らされた。数年前の自分たちのように死と隣合せの戦場の若者に思いを馳せた。
 国連軍の総指揮官となったマッカーサーが、仁川(インチョン)に奇襲上陸して形勢は逆転。韓国軍と国連軍はソウルを奪還し、勢いに乗って相手の首都・平壌(ピョンヤン)を攻略し、なお北進すると今度は中国の“人民義勇軍”が、北朝鮮を助け、再び押し戻した。
 壮絶な戦闘の繰り返しは、次の年の休戦まで約1年続き、朝鮮半島の全土に渡って町や村が破壊された。第2次大戦中に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の海州にいた私には、大戦中ほとんど空襲もなく、のどかだったのに――と思った。
 その朝鮮半島での戦争が、日本での特需景気となり、経済復興を加速させるのだから、世の中の仕組みとは不思議なものだ。
 朝鮮戦争の起こる4ヶ月前の京都市長選挙で民主党推薦の和辻春樹候補の私的な秘書役となったのも、私には不思議な時間だった。社会党の高山義三が当選したが、芦田均(あしだ・ひとし)元総理や民主党の青年将校といわれた若き中曽根康弘といった政治家をすぐ近くで眺め、どこからともなく金が集まって、散り去り、落選となると誰も寄り付かなくなる奇妙な世界を垣間見た。
 この年の暮れの誕生日で、私は26歳になる。彷徨時代も終わりに近づいていた。


終戦直後の出来事

昭和25年(1950年)
◎1月   第28回全国高校選手権大会で大阪の池田高が優勝
◇2月   京都市長選挙
◎4〜5月 英空母ユニコーン号乗組員と親善試合
◎5月   第3回全国実業団選手権に田辺製薬が初優勝。この大会から6年連続優勝。94戦無敗記録がスタート
◎6月   第30回日本選手権大会(現・天皇杯)が刈谷市で初の地方開催
◇6月   朝鮮戦争始まる
◎6月   FIFAは22日の総会で日本とドイツの復帰を認める
◎6〜7月 ブラジルで第4回ワールドカップ(戦後初)開催。ウルグアイが優勝
◇7月   マッカーサーが、朝鮮派遣国連軍司令官に任命される
◇9月   国連軍仁川上陸、ソウルを奪回し北進。中国人民義勇軍が参戦

※◎はサッカー、◇は社会情勢


(週刊サッカーマガジン2001年1月24日号)

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