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戦後の混乱と復興期に(6)

第1回アジア大会への参加

 大戦争を仕掛けた側として、しばらく国際大会への仲間入りを許されなかった日本のスポーツ界にも、復帰のチャンスが訪れたのは、昭和26年(1951年)3月、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会。
 3月4日に開幕し、11日までの8日間に、陸上競技、水上競技、サッカー、バスケットボール、自転車、ウエートリフティング、芸術競技の7競技が行なわれた。日本からは、水上と芸術競技以外の5競技に出場した。
 大戦前に日本、フィリピン、中華民国の間で行なわれていた極東選手権と1934年に始まった西アジア競技大会を一つにしようというインドの体育関係者の提唱を、“偉大な”ネール首相がバックアップした。アジアを一つに結び、植民地支配を脱した各国の進歩を旗印に「エバー・オンワード」(限りなき前進)をモットーとし、エイジアン・ゲームズ(ASIAN GAMES)と名付けることになった。
 当初は1950年2月開催の予定だったが、準備の都合で1951年3月となった。FIFA再加盟を認められたサッカーをはじめとする日本の競技団体には、願ってもない朗報だった。
 大戦中に日本によって大きな被害を受けたフィリピンから「国民感情のうえから日本の第1回大会参加は認められない」との申し入れもあった。開催国インドとアジア競技連盟の「国際競技連盟に加盟している国の参加は認める」との姿勢によって、日本の参加が実現したのだった。
 日本から送り込まれた選手団は、陸上34、サッカー16、バスケット12、自転車5、ウエートリフティング2、本部10の79人。一行は2隊に分かれ、第1陣は2月25日、第2陣は28日に羽田を出発。それぞれ沖縄、バンコク経由の3日がかりでニューデリーに到着した。


代表16人中10人が神戸一中

 サッカー日本代表は◇監督兼FW二宮洋一(慶応大出、33)◇GK津田幸男(慶応大出、33)◇GK兼FB加藤信幸(東大出、30)◇FB田村恵(早大出、23)堀口英雄(早大、23)岡田吉夫(早大出、24)杉本茂雄(関西学院大出、25)松永信夫(東高師出、29)◇HB有馬洪(東大出、23)宮田孝治(早大出、27)則武謙(神戸経大出、28)◇FW鴇田正憲(関西学院大出、28)賀川太郎(神戸経大出、28)松永碵(早大、23)岩谷俊夫(早大出、25)加納孝(早大出、30)和田津苗(関西大出、26)。
 松永信夫、碩はベルリン五輪の対スウェーデン戦で決勝ゴールを決めた故・松永行の兄弟。残念なことに信夫は戦時中に憲兵将校であったために、海外渡航が認められず、不参加となった。
 年齢で見るとおり、戦前、戦中派が主力。大学は6校からだが、16人中10人が神戸一中(旧制)出身者。卒業回数は36回から45回までで、私(43回卒)にとっては身近な仲間たちであった。
 試合は、韓国や中国が内戦のため不参加だったことから、6ヶ国によるノックアウト・システム。1回戦ではインドとイランが、それぞれインドネシア、ビルマを3−0、2−0で破り、日本は3月7日の2回戦(準決勝)でイランと対戦。0−0で引き分け、翌日に再試合を行なった。今度はゴールの応酬となったが、2−3で敗れた。
 3位決定戦は3月9日、アフガニスタン(インドに0−2で敗退)との間で行なわれ2−0で勝利を収め、10日の決勝はインドが1−0で勝った。
 二宮監督の報告や出場した選手たちの話によると、インド、イラン、日本の3チームが互角。インドはドリブルなどのフットワーク、イランは体力、日本は組織プレーと、それぞれがはっきりしたカラーを持っていた。
 日本にとっては酷暑のなかでのデーゲーム。特に乾燥した空気がハンディとなり、第1戦はまったく防戦一方だった。「ハーフタイムに水を飲むと、その後、逆にノドがひっついてしまう。輪切りレモンを口に入れるほうがよかった」(賀川太郎の話)。
 試合時間は30分ハーフ。暑さを考慮してのことだが、延長が7分ハーフだった。驚くべきは、気温百十度(摂氏約40度)のなかでの試合にもかかわらず、2万の観衆でナショナル・スタジアムが満員になったこと。あらためて、アジアでのサッカー人気を知らされた。
 この年は、秋にスウェーデンからヘルシングボリというクラブチームが来日し、大戦後のスポーツ界で初のヨーロッパからのチームと評判になった。彼らはベルリン(1936年)の雪辱に来たと公言したとおり、ロンドン・オリンピック(1948年)優勝国のレベルを見せつけるのだが、このアジア大会とスウェーデンチームの来日が、私の記者稼業への転機となる。


(週刊サッカーマガジン2001年1月31日号)

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