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スポーツ記者になって(1)

産経新聞の運動部へ

 産経新聞がボールゲームを書ける記者を欲しいと言っている。履歴書を出してみては――とTさんが薦めてくれたのが、昭和26年(1951年)の暮れのこと。
 それがきっかけで、あっという間に話が決まって、昭和27年(1952年)の正月の朝日招待サッカーの取材を仕事始めに、運動部記者としてのキャリアを踏むことになった。
 流政之(ながれ・まさゆき)のデザインクラブで“梁山泊(りょうざんぱく)”よろしく、ガヤガヤやっている仲間に美術記者がいて、そこからスポーツ記者のTさんとも知り合いになった。そして、アジア大会やスウェーデン・チームの来日などのときに寄稿するようになって、記者という仕事に興味を持ち始め、朝日新聞の運動部にいる6年先輩の大谷四郎記者の記事にも目を向けるようになっていた。一歳年少の岩谷俊夫が製薬会社の三共を辞めて共同通信社に入ったのも、刺激になっていた。
 スポーツとは畑の違う集まりでの知人からスポーツ記者へとめぐっていく、縁(えにし)の不思議さ。もしTさんが現れなかったら、私はいまごろ何をしていたかと、思うことがある。
 産経新聞は、その頃から大阪で非常な勢いで発行部数を伸ばしていた。理由はページ数が多いこと。戦後の物資不足、統制経済のなかで社主の前田久吉が、仙花紙と言われる質の劣る紙を手に入れ、他社の朝刊が4ページであったのに6ページにしていた。その余分な2ページのうち1ページがスポーツ、もう1ページがどこにもなかった婦人面だった。


ゾウさん、木村象雷部長

 そのスポーツ面の責任者が運動部長の木村象雷(故人)。“しょうらい”と読むのだが、象の字からスポーツ界では“ゾウさん”で通っていた。
 明治41年(1908年)2月9日生まれだから当時43歳、アムステルダム五輪(1928年)の背泳の日本代表で、同志社中学、早稲田大を経て同盟通信(のちの共同通信)で働き、ベルリン五輪(1936年)の特派員となった。帰国後は朝日新聞に移り、大戦中は兵役、復員後は函館新報、スポーツニッポンから産経――前年の第1回アジア大会(インド・ニューデリー)への取材にも出かけていたので、兄・賀川太郎や岩谷俊夫とも面識があり、初めての面接の日には兄も付き合ってくれた。
 私の人生は、常にいい先輩に恵まれ、優れた仲間や後輩と付き合う幸運がついて回ったが、記者生活に入るとき、木村部長に出会えたことは“超幸運”だったと言える。
 初対面の雇う側の相手に問われるままに、学校を辞めた理由、その後の生活などを隠さずに語った。あとで兄に「あそこまで言わなくても」と言われた。自分では、この人にすべてを語ってそれで気に入られなければよい――と思っていたのだが…。
 2日後に会社の幹部3人に会い、そこで即決。1月から来てくれということになった。


自分の試合を記事に…

 京都から大阪へ通勤の不便を解消するため、天王寺の東門近くに居を移し、3月から母と兄と3人で暮らした。ゲームや企画物の取材であっという間に日が過ぎていった。
 スポーツ界も、前年のボストン・マラソンの優勝(田中茂樹)に続いて、この年の2月にはインド・ボンペイ(現・ムンバイ)での卓球の世界選手権で日本が4種目に優勝。5月には東京・後楽園球場でのボクシング、世界フライ級タイトルマッチで白井義男がダド・マリノ(米国)を破って、日本人として初の世界王者となる――など、国際的にも華やかになってきた。
 私自身のサッカーも、まだ続いていて、5月に藤枝で行なわれた天皇杯には大阪クラブで出場し、川本泰三、賀川太郎、岩谷俊夫たちとともにプレーをした。決勝の対全慶応は、当日の朝になって、ボルトシステム(※)を採ることと決めたが、チームにとっての新戦術は未消化に終わり、不本意な敗戦となった。その負け試合の模様を記事にして本社へ電話で送るというのも仕事だった。
 楽しいことばかりではない。医務室から検診の結果、「左肺に異常あり」と告げられる。もともと、自然治癒の跡があると学生時代から言われてきたところなのだが、会社のドクターは「3ヶ月の休養」を指示した。ヘルシンキ五輪が始まろうという7月のことだった。

※編集注:1930年代、オーストリア人のカール・ラッパン監督が採用し、指揮を執ったスイスのセルベッテ、グラスホッパーの両クラブで実践したシステム。3−3−4の布陣で、守備に一人、スイーパー的な選手を増やし、守りを固める戦術。イタリアのカテナチオは、ボルトシステムが進化した形である。


スポーツの国際社会復帰

昭和27年(1952年)
◎1月 第30回全国高校選手権に浦和高が初優勝
◆2月 ボンベイでの世界卓球に初参加。日本が4種目優勝
◎5月 第32回天皇杯。全慶応が優勝。大阪クラブ2位
◎5月 香港軍人連合・光華チーム来日
◆5月 ボクシング世界フライ級で白井義男が初タイトル
◆7月 ヘルシンキ五輪。復帰の日本は陸上、水泳ともに不振。
    レスリングで唯一の金メダル。サッカーは不参加。視察員のみ。優勝はハンガリー
◇11月 太平洋エニウェトク環礁で米国が水爆実験。米大統領選挙、アイゼンハワーが当選

※◎サッカー、◆その他のスポーツ、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2001年2月7日号)

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