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スポーツ記者になって(2)

ヘルシンキ・オリンピック

 1952年7月19日から8月3日までフィンランドのヘルシンキで行なわれた第15回オリンピックは、日本のスポーツ界にとって敗戦後7年、ようやく復帰できた大会だった。私自身はスポーツ記者という職業についての、最初のオリンピック夏季大会だった。
 もちろんこの年の2月にノルウェーのオスロで冬季オリンピックが開催され、日本からはスキーの6選手、スケートの7選手が参加した。しかしスピードスケートの高林清隆が男子500メートルで6位に入賞しただけで、当時まだまだ関心の低かった冬季大会に自社から特派員を送ることもなかった。
 ヘルシンキ大会には陸上は20人、水泳は27人、レスリングは5人、漕艇は5人、体操からは5人。さらに自転車から4人、ボクシングから2人、馬術、ヨット、フェンシング、重量挙げ、射撃から各一人、総勢73選手を送り込んだ。
 戦前のベルリン大会に比べると半分の人数、チームゲームは抑えられ、サッカーは竹腰重丸が一人、視察員として加わっただけ。外貨事情の関係からメダルの目算の立つメンバーを選んだはずだったが、陸上は振るわず、吉野トヨの女子円盤投4位が最高。水泳では100メートル、1500メートル、800メートルリレーの各2位が最高だった。
 いまのJOC(日本オリンピック委員会)の古橋廣之進会長は、400メートルと1500メートルに出場。最盛期を過ぎた彼はメダルに届かず、「古橋を責めないでください」とNHKのラジオの声がスポーツ選手の「花の命」の短さを伝えた。


SUOMI対UNKARのパンフ

 会社の検診で「肺に異常あり」と診断された。休養することになっていた私だが、実際はそれほど調子も悪くならなかったので、用心をしつつ、会社へ顔を出して仕事を手伝っていた。そして、レスリングや体操といった日ごろなじみの少ない競技でも、メダルを取れば大見出しをつけるジャーナリズムの不思議さを眺めていた。
 木村象雷特派員の仕事ぶりは、さすがに手際良かった。日本の出場していないサッカーにまでは、取材の手が回らなかった。ところが、大会の20日前に行なわれたフィンランド対ハンガリーを観戦して、小さなプログラムを土産にくれた。
 オリンピックのマラソン代表の選考会があったが、走者が場外を走っている間に、新設のスタジアムでサッカーの試合が行なわれた。あのマイティ・マジャールにとっては、新しいシステムのM型FWのテストだったはずだが、スコアは6−0。
 UNKAR(フィンランド語でハンガリー)と書かれたメンバーは、GKグロシチ、DFブザンスキ、パロタス、ラントス、HBコバッチ、ボジク、FWが右からラブダイ、コチシュ、デクチ、プスカシュ、チボールと書かれてあった。
 両チームのメンバーとマラソンの参加者だけのA5版の簡素な12ページのパンフレットは、この大会の優勝から2年間無敗を続けるプスカシュたちハンガリー代表への私の関心を深めた。
「後方からボールを受け取ると、目にも止まらぬ早ワザでターンし、シュートする選手がハンガリーには3人もいた。SUOMI(フィンランド)には、それが一人だけ。両チームの力の差はそこにあった」と言う、ゾウさんのこの試合評は、私に、ともすれば戦術論を振りかざすサッカー仲間たちとは、また違った素人の見方の面白さと的確さを教えてくれた。


国際学生スポーツ週間へ

 その次の年の6月、日本のサッカー会は、西ドイツからオッフェンバッハ・キッカーズと言うクラブを迎えた。彼らは試合だけでなく、新しい西ドイツのサッカーの指導方法を披露することになった。
 書物の上で知っていたドイツのショートパスは、休むことのない豊富な運動量に支えられていること。また、相手の弱点を見つければ、そこに迷うことなくロングパスを送り込んでくることも知った。
 その西ドイツのドルトムントで夏に開かれる国際学生スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に、学生選抜チームが派遣され、ベルリン以来、戦後初の欧州行脚は、若い学生へインパクトを与え、長沼健(現・日本協会名誉会長)をはじめ、後の日本サッカーの中枢となる人材を輩する。
 私にとって、1953年のもう一つの事件は5月の英国登山隊のエベレスト登頂の成功。その前のシプトンの偵察隊のころから関心を持って、タイムの特集を取り寄せるなどしていたから、ハント大佐の英国隊の成功の解説を書くことは、とても楽しい仕事だった。
 11月25日、今度はイングランドにとってショッキングな日。ウエンブリーでハンガリーが6−3で快勝した。世界はどんどん動いていた。


(週刊サッカーマガジン2001年2月14日号)

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