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番外編 ヤンマーサッカーの生みの親 山岡浩二郎さん
山岡浩二郎(やまおか・こうじろう=神崎高級工機製作所社長、ヤンマー・ディーゼル取締役)氏が1月29日、午前11時23分、心不全のため死去。83歳。葬儀・告別式は密葬として2月1日午後0時30分から西宮市城ヶ堀町1−40、西宮山手会館で、社葬の日取りは未定。喪主は三男の靖幸(やすゆき)氏。
大阪に日本一のチーム
いまのセレッソ大阪の母体となったヤンマー・ディーゼル・サッカー部は、いわゆる釜本・ヤンマーの時期(1967−1980)にJの前身・日本サッカーリーグで、優勝4回、準優勝3回、天皇杯は優勝3回、準優勝4回の輝かしい成績を残した。それだけでなく、企業内のアマチュア・チームの運営、海外からの選手の受け入れ、個人技術アップの指導方針など、日本サッカー界に大きなインパクトを与えた。
そのヤンマーのサッカー部を育てたのが、山岡浩二郎さんだった。
大正7年(1918年)1月3日、大阪生まれの浩二郎さんは、天王寺師範付属小学校から今宮中学校を経て、大阪高等学校理科2類、そこから大阪帝大(現・大阪大学)の工学部、機械工学部へ進んだ。
教育者を父に持ち、次男で勉強家、いわゆる秀才コースを歩んでいたが、サッカーの強い天王寺師範(この連載、第21回を参照)の付属小学校ではサッカーに親しみ、今宮中では体操部、高等学校ではテニス部に籍をおいた。
大学生のときに、ヤンマー・ディーゼルの創始者・山岡孫吉(故人)に見込まれて、長男・康人(故人)との兄弟付き合いが始まり、大学卒業とともに、その妹・規志子と結婚した。
川崎姓を山岡姓に替え、「山岡発動機工作所」(のちのヤンマー・ディーゼル)に入社し、大戦中は海軍の技術中尉として呉の海軍工廠(しょう)で働き、戦争終結とともに空襲で大きな痛手を受けた会社の再建、復興に取り組んでいった。
エンジニアとしての技術開発力と経営能力は、昭和31年(1956)、38歳の若さでヤンマーの役職を兼任のまま、神埼高級工機の社長に就任となって、さらに高まる。
釜本の加入、ブラジルから吉村
サッカーへのかかわりが深くなるのは、その翌年のサッカー部の創部のころから。東京オリンピックの次の年の日本サッカーリーグ創設には、関西から唯一のチームとして参加した。
当時の実力では、田辺製薬をはじめヤンマーより上のチームもあったが、積極的な姿勢が買われての加盟承認だった。
しかし、その力は昭和41年(1965年)の初年度8チーム中7位、2年目8位という成績となる。入れ替え戦をようやくしのいだチームは、次の年に日本代表チームのセンターフォワードである釜本邦茂を迎え入れる。
早大で4年連続関東大学リーグ得点王、日本代表のスター・センターフォワードの最下位チームへの入部は、衝撃的だったが、ヤンマーのサッカーの責任者である浩二郎総監督の熱意と、早大の先輩である川本泰三(当時関西協会理事長)の関西復興への意欲が、釜本の心をとらえた。
「いくら釜本でも、一人ではあのヤンマーのなかでは…」との懸念に対して、10人に及ぶ大学選手の入社、さらには初めてブラジルから日系2世ネルソン吉村(現・ネルソン吉村大志郎)を加える強化策で応じる。ブラジルからの選手の流入は、のちに各チームが倣うが、ネルソンの演じた浮き球の処理やブラジル流の柔らかいボール扱いは、当時のファンには新鮮で感動的でもあった。
1968年の冬に釜本を西ドイツへ単身留学させたのも、当時はだれも考えつかなかったアイディアの実行だった。クラマーなどの協力を得て、自らドイツに飛び、ザールブリュッケン州の協会長ノイベルガーやデアバル・コーチと会い、確認を得たうえでの派遣は、指導の適切さもあって、2ヶ月の短期で驚くべき成果となり、メキシコ・オリンピックの日本代表銅メダルに、釜本自身の大会得点王となって表れた。
新しいアイディアの強化策
70年代ヤンマー黄金期に、1、2軍制をとり、2軍のヤンマークラブが76年には日本リーグ2部で試合をするまでになった。この2軍制構想は、長くは続かなかったが、いまのセレッソの副島博志監督は、「佐賀商を出たばかりの私は、このヤンマークラブでの試合のおかげで、サッカーを覚え、80年から1軍に入れた。あの制度がなければ、地方の高校出身の私が選手になれたかどうか――」と言っている。
サッカーが、日本の社会で比重を増してきたいま、あらためて浩二郎さんが「ものつくり」の生涯のなかで、スポーツは企業の社会貢献だとしてヤンマーのサッカーを世に送った功績の大きさを思う。その根から、大阪のチームが花を咲かせる日も近い。
(週刊サッカーマガジン2001年2月21日号)