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スポーツ記者になって(3)

初めてのワールドカップ

 駆け出し時代の2年はアッというまに過ぎた。その3年目の3月に日韓戦があった。戦後2回目の1954年ワールドカップ・スイス大会の地域予選第13グループの試合だった。
 日本協会では1938年のフランス大会にはエントリーしながら、ベルリン五輪のチームを主力にした世界への挑戦は、“非常時局”のため、結局は取りやめとなった経緯もあり、竹腰重丸・技術指導委員長は大会参加によって世界の技術を確かめようとしたのだろう。参加のための旅費、滞在費も開催地が負担してくれるのも魅力だったに違いない。
 戦前の中学、大学、あるいは社会人など各層での朝鮮半島のチームの強さを知っている私には、韓国代表との対戦は興味はあったが、ワールドカップを目指す点が引っかかっていた。もちろん、今ほどワールドカップについて知っていたわけではないが、前年に来日した西ドイツのオッフェンバッハ・キッカーズの若手のピカ一、ベルティ・クラウスの話が引っかかっていた。
「オリンピックへは、ボクたち(セミプロ)よりレベルの低い選手が行く。ボクが狙っているのはワールドカップの代表。このチームの得点王で、日本との試合でも活躍したセンターフォワード、プラゼンドルファーでも、その代表じゃないから、高い目標だが、なんとか候補に入りたい」。
 最終戦で日本のディフェンダーをズタズタにした18歳の彼の速さとうまさ、このチームと日本代表との間の圧倒的な体力と組織力の差を考えれば、そういうレベルの違う大会へ努力するよりも、むしろ5月の第2回アジア大会に、協会も選手も力を注入する方がいいのではないか、とさえ思っていた。
 それは新聞社に入ってあらためて、サッカーのこの国での浸透の薄さに気がつき、多くの人たちが知らないワールドカップ(大会に行けば差が歴然としているのに)よりも、メディアにも関心の高いアジア競技大会で勝つことが、普及には役立つはず、と考えていたからだ。


悪コンディションの第1戦

 2002年のワールドカップ共同開催が決まって、日韓サッカーの交流への関心が高まり、大島裕史(おおしま・ひろし)著「日韓キックオフ伝説」(実業之日本社刊)の力作が生まれ、また20世紀を回顧するテレビの番組や活字の企画に、この“初”の日韓戦が取り上げられるようになったが、この1954年3月の日韓戦は最も身近な仲間たちがピッチに立っていただけに、私は振り返るたびに砂をかむよな思いがする。
 韓国側の勝利への壮烈な意気込みに、日本側が応じられなかったのが一番だろうが、何といっても第1戦の3月7日、前日の降雪のあとの悪コンディション、英人レフェリーの中止(健康に良くないという理由で)のアドバイスにも強行したところがすべて。日本協会の田辺五兵衛副会長は、その理由を「試合が1週間延びれば、経費も増える。そのことが心配になって、勝負という点だけでの決断ができなかったのだろう」と言っている。
 1−5で大敗した後、第2戦に勝てば1勝1敗(当時は得失点計算はなし)で第3戦をすることになっていたから、そちらに賭けたとも言えるが、確かに第2戦は、優勢な試合ではあったが、2−2から3点目を奪えなかった。


アマチュアの限界と成長

 つづく5月の第2回アジア大会は1次リーグ敗退。川本泰三・コーチ兼選手からのハガキは、「賀川(兄・太郎)がコンディションを崩し、岩谷も蹴られて足を負傷し」と中盤の構成ができなくなったと伝えてきた。
 ここ数年の太郎の生活は、会社勤めと田辺製薬チームの実業団の試合、大阪クラブの天皇杯、日本代表、あるいは東西対抗など、年間30試合の繰り返しで32歳までやってきたから、アマチュアでは限界だったろう。若いころに鍛えた体の蓄積もほぼ使い果たしたに違いない。ただし、本人はこのスランプから脱して、9月に松山で行なわれた第7回全日本実業団で新境地を開き、彼のパートナー、29歳の鴇田(ときた)も、それによって一段上のプレーに足を踏み入れる。
 ひそかなトレーニングが効いたのか、沈んだ後の反動での上昇なのか、とにかく30歳を越えてなお上達する彼らに目を見張るとともに、技術伝承の拙い(つたない)、日本サッカーの進歩の遅さに苛立つのだった。


(週刊サッカーマガジン2001年2月28日号)

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