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スポーツ記者になって(4)

スポーツ紙発刊と“キックオフ”

 昭和30年(1955年)の2月になると、仕事が増えた。産経新聞がスポーツ専門誌「サンケイスポーツ」を発行することになったからだ。
 新しく会社を創るのではなく、産経の運動部長・木村象雷が編集の責任を負うことになり、運動部の記者たちは、一つの試合を取材すると産経新聞(社内では本紙と言った)のスポーツ面用と、サンケイスポーツ(サンスポ)用の二通りの原稿を書くことになった。
 当時はスポーツ紙といっても4ページで定価5円だったので、ある程度、簡単に記事を書けば十分だったとも言えるが、私たちは一つの試合を書き分ける、その手法を見つけることに面白みを見いだしていた。
 書くと言えば、昭和29年8月1日、大阪サッカークラブの会報(ブレッティン)「キックオフ」を発刊し、30年2月20日には第2号を送り出していた。
 大阪クラブは、川本泰三の提唱で生まれたクラブ。学校の系列にはとらわれず、チャンピオンシップを戦う社会人チームとして、昭和26、27、28年と3年連続して天皇杯で準優勝。ピッチでのパフォーマンスだけでなく、クラブ会報、あるいは機関紙の形で印刷物を出していた。言葉や文字や活字によっても、戦前の黄金期から戦中派に至る蓄積を伝えたいと考えたのだろう。
 川本案に大谷四郎(朝日新聞)が積極的に賛成して、やる気十分になったから、記者商売でも、サッカーでも後輩である私や岩谷俊夫(毎日新聞)に反対する理由はない。


産経より有名? な同人雑誌

 創刊に際して、大谷編集長はこう述べている。「この雑誌は、われわれ大阪クラブの同人雑誌である。われわれは長い間サッカーを楽しみ、こよなく愛してきた。しかし、いまなお、ああでもない、こうでもないと考えている。この後もまた同様、頭と身体をひねくり続けるだろう。だからわれわれはこの雑誌に何らの権威も要求しない。言うなればささやかな研究の報告ないしは、われわれの饒舌(じょうぜつ)に過ぎない、だが同じようにサッカーを愛好する人々のためにいささかでも役に立たせたいものだと秘かに願っている――。(以下略)」
 B5版、創刊号(52ページ)のトップ記事は、「世界を湧かすゲーム ワールドカップ物語」。第2号(36ページ)は、「対外試合に何を学んだか」で川本・大谷対談と日本代表8選手の寄稿。第3号(昭和30年10月1日発行)は、「日本チームの行方」などだった。
 毎号には、私の担当している技術指導書の翻訳「クリークのサッカー自習書より」や「ウインターボットムのサッカーコーチング」なども連載した。
 希望者には実費50円で販売したが、協会の機関誌以外サッカーの雑誌はなかった(もちろん、サッカー・マガジンもまだ出ていなかった)から、反響もまずまずだった。
 高校選手権出場の熊本工高の宿舎を訪問したときに「産経の賀川」では通じないのが、「あのキックオフの賀川さん」と言われて驚いた。秋田商高の内山真先生には「キックオフの技術解説が頼りだから、発刊回数を増やしてほしい」と要求され、たじろいだりした。
 この雑誌作りで、中学の6年上の先輩、大谷四郎さんのていねいで、それでいておおらかな仕事ぶりと何にもまして、物事の大筋をつかむうまさに感じ入った。中学生のころからプレーメーカーで、ストライカーであった岩谷くんが、日本代表選手から指導者へと移ってゆく過程を、その書き物とあわせて眺められた。


日本代表の大幅入れ替え

 岩谷は1955年1月のビルマ遠征に、ただ一人の戦中派として、若い日本代表とともに3週間にわたるツアー(7試合)に参加した。
 自然発生的な代表チームの入れ替えは難しいと見た協会首脳は、30歳を上限に、彼と鴇田正憲の二人を残し、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三たち、昭和5〜6年(1930〜1931年)以降生まれ世代への切り替えを図った。
 八重樫茂生や小沢通宏もいた。1958年(昭和33年)に東京で開催される第3回アジア大会に備えての若返りだった。そのアジア大会の前に、メルボルン五輪予選も待っていた。
 スポーツ紙を持つことで、私に調べものの機会が増えた。冬の間だけの企画だが、「きょうの歴史」という短い囲み記事を毎日、書くためだった。
 CIA図書館へ通っているときに「ライフ」のグラビアで、1949年5月、トリノFCの飛行機事故と、その長い葬列のシーンを見て強い衝撃を受けた。


(週刊サッカーマガジン2001年3月7日号)

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