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スポーツ記者になって(5)

メルボルン五輪の激闘

 昭和31年(1956年)6月3日、後楽園競輪場の特設サッカー場で行なわれたメルボルン五輪極東予選。日韓第1戦、日本は2−0で勝った。
 続く第2戦(6月10日)は0−2で敗れ、15分ハーフの延長(代表決定戦)は0−0。抽選で日本が五輪出場権をつかんだ。
 後楽園競輪場は、いまの遊園地のあたりにあった。やがて美濃部・都政の競輪廃止でなくなるのだが、その競輪場のバンクの内側にピッチが設けられていた。やや狭かったが、第3回アジア大会(1958年)、東京五輪(1964年)のために神宮競技場が改装、また改装で国立競技場へと変わってゆく間、サッカー界にとっては唯一都心にあるスタンド付き芝生グラウンド。東京五輪まで再三ビッグゲームの会場となった。
 前年から大幅な若返りを図った日本代表の重点ポイントは、「基礎技術のアップ」。それに比べて韓国代表は力も上で難敵ではあった。しかし、第1戦は若い気迫とベテラン鴇田の技術がかみ合い、会心の勝利となった。
 個人のテクニックが高くキープ力に勝る韓国が包囲攻撃に出たが、小沢通宏をはじめとする守備陣とGK古川が落ち着いて防いだ。韓国のセンターフォワード、崔貞敏の動きに小沢がつられて中央を空けない対策。それだけハーフバックの運動量が増えたが、最終ラインの安定は崩れなかった。ボールを持つ崔貞敏が自分でつっかけてくるときが一番の脅威だったが、彼はこの試合の直前のアジア選手権のフィリピン戦で左足を痛めていたため、無理をしなかった。


会心の第1戦、2−0

 そうした幸運もあったが、日本が決めた2ゴールは見事なものだった。1点目は右サイドの鴇田がキープして、センターフォワードの位置にいた八重樫が右前へ大きく動いて相手DFをひきつけてスペースを作った。そこへ飛び出した内野の前へ鴇田がライナーのパスを出し、内野が飛びつくようにヘディングした。
 単純だが大きな動きで、二人の走り出すタイミング、そして鴇田のキープとパスを送るタイミングが見事に合ったビューティフル・ゴールだった。
 2点目もカウンターで、起点は鴇田のキープ。八重樫が右斜め前方へ走るところまで1点目と同じだった。しかし、ここから鴇田は少し中寄りにドリブルしてから縦に八重樫へボールを送る。八重樫はコーナー付近で鄭をかわしてゴール前へクロスを送った。
 相手DFは二人。日本も内野と岩渕がいて、ボールは内野の内側に流れ、そこでもみ合いになってこぼれたボールが岩渕の前に出た。岩渕の右足のシュートは素晴らしい勢いでゴールへ飛んだ。DFの李は頭から飛び込んで防ごうとしたが…。


内野が故障、10人の第2戦

 第2戦は好天気。日本は第1戦で左ヒザを痛めた鴇田を引っ込め、同年輩の岩谷を送り込んだ以外、メンバーは変えなかった(合宿中に長沼健をはじめ、5人の負傷者があった)。対して韓国は、第1戦とは7人も入れ替えてきた。
 こういうときの韓国に対して先制すれば、一気に優位に立てるとみていたら、6分にPKのチャンスが生まれる。しかし岩谷のシュートはGK威興哲がコースを読んで止めた。
 ラッキーな得点チャンスを失うと、アンラッキーがやってくる。20分に内野が相手選手とぶつかって右足を痛め、満足に動けなくなって戦況は一気に韓国に傾いてしまった(当時は、まだ交代はなかった)。
 さあ、いける! という気になって勢いづいた韓国の攻撃を防ぐのは、並大抵ではない。残り70分を2失点にとどめたのは、まったく日本の頑張りだった。
 2−2となって、15分ハーフの延長戦(代表決定戦)で、日本はゴールした――が、オフサイド。抽選は、韓国が先に引き、あとから引いた日本、竹腰重丸監督が“勝”の紙片を手にしていた。
新しい日本イレブンは、まさに生涯にそう何度も経験できない“全力を尽くす”戦いののちに日本サッカー2度目の五輪出場を決めた。
 私たち、大阪クラブの機関誌“キックオフ”は第4号で、この2試合の詳細、韓国の李栄徳コーチと川本泰三コーチの対談などを特集した。驚いたのは、李コーチが“第3号にこんな話があった”と言ったこと。小冊子も見逃さない彼らの日本への目配りに、感嘆したものだ。


戦後の主な出来事

昭和31年(1956年)
◎1月  第31回全国高校選手権は浦和2連覇
◎6月  メルボルン五輪極東予選で日本は第1戦(3日)2−0、第2戦(10日)は0−2。
     抽選で韓国を抑えて代表に
     初のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ決勝(13日、パリ)でレアル・マドリード(スペイン)がランス(フランス)を4−3で破って優勝
◇10月  英仏軍エジプト攻撃
◇11月  南極観測船「宗谷」が出発
       ハンガリー・ナジ政権、ワルシャワ条約脱退を声明。ソ連軍の侵略
◎11月〜 第16回メルボルン五輪開催。日本サッカーは1回戦で豪州に0−2で敗退。優勝はソ連(〜12月)
※◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2001年3月14日号)

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