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スポーツ記者になって(6)

“山ある記”の始まり

 スポーツ記者稼業の6年目に入った昭和32年(1957年)、楽しみが増えた。「山ある記」を書くことだった。
 英国ハント隊のエベレスト初登頂、マナスルでの日本隊の成功などから、登山ブームといわれるようになっていた。担当記者として、大学の山岳部の学生たちと付き合いが深くなっていくうちに、“うちの夏山合宿へ来ませんか”ということになり、入社のときに検診で引っかかった“結核”も、その後あまり問題もないようだからと、この年の7月上旬、大阪大学に同行した。徳本峠(とくごうとうげ)を越えて、上高地に入り、横尾や涸沢(からさわ)、あるいは奥又池(おくまたのいけ)など、神戸大、関西大、関西学院大のテントを訪れ、A沢を登って奥穂高の頂上に立つなど、1週間を存分に楽しんだ。
 山から戻って、8月下旬の産経新聞スポーツ面に「岩魚(いわな)」「ボッカ(荷揚げのこと)」「テントの灯(山の怪談)」「キジうち(用を足すこと)」などを「キャンプ夜話」として掲載すると、その反響の大きさに驚いてしまった。調子に乗って、サンケイスポーツに書くことにしたら、木村象雷部長が、“そこに山が「ある」から”と「歩く」を引っ掛けて「山ある記」と名づけてくれた。
 山の紀行は、マッターホルン初登頂のウインパーの「アルプス登攀記(とうはんき)」といった古典から、1950年フランス隊の「処女峰アンナプルナ」(M・エルゾーグ著)に至るまで、国内外の名著を学生時代から胸躍らせて読んでいたものだ。しかし、氷雪や本格的なロッククライミングの経験のないこちらの記述は、もっぱら大学山岳部の部員をはじめとする山男の行状、いわば、たわいのない山についてのおしゃべりだが、それが珍しかったのか、結構評判がよかった。
 京大学士山岳会の伊藤洋平氏――のちに京大の医学部長になった――から、1週間、山に入っただけで、10本も続き物を書くのだからすごいと冷やかされたが、この洋平さんが八高時代に寮の壁で、岩登りの練習をして落ちた話なども、ちゃっかり入っていた。


イスラエルが来て、中国へ出かけ

 韓国との予選を制して、本舞台へ出場しながら、サッカーは前年12月のメルボルン五輪で1回戦敗退、それも相手が弱いはずのオーストラリアだったから、意気消沈だった。初舞台で硬くなったのだろうが、韓国相手のときのように、捨て身になれず、相手の気迫と当たりの強さをかわせる技術もなかった。
 沈滞ムードのサッカーとは別に、ゴルフがカナダカップの優勝で第1次ブームに向かい、スキーは猪谷千春の回転銀メダルで沸いた。そのコルチナ冬季五輪(イタリア)のアルペン・スキーの三冠王、オーストリアのトニー・サイラーが来日し、彼の主演映画のテーマ音楽が、巷に流れるようになる。
 サッカーも実力うんぬんとは別に、国際化は広がる。9月にイスラエルからハポエル・クラブが来日し、10月末には中国へ、日本代表が出かけて7試合をした。
 日本にとって珍しいイスラエルのチームの紹介記事を書くとき象雷部長から、“記事のあしらい”を何にするかと言われ、選手の顔写真も集合写真もないまま、イスラエル国旗をカット代わりにした。
“これでよろしい、活字だけでは人の目をひき付けないからネ”という象(ゾウ)さん。紙面を見て、あらためて「この人にはかなわないな」と思った。


スキーのプロ・コーチ、マットさん

 次の年、昭和33年(1958年)1月、部長の指示で滋賀県の伊吹山でのオーストリア・スキー技術講習会の取材に出かけ、アールベルグ・スキー学校の校長のルディ・マットと1週間を過ごすことになる。産経新聞のイベントということもあったのだが、大戦後、フランス・スキーに押されていたオーストリア技術の巻き返しに来日した54歳の“名人”の滑りのうまさと足腰の強さに驚くとともに、人の心をつかみ、どんなクラスをもスキーに夢中にさせてしまうプロフェッショナル・コーチの能力に目を見張った。同行の学習院大の福岡孝行先生のドイツ語力のおかげで、世界的なスキーの指導者との1週間は、私にはスポーツの技術指導への目を開く珠玉のときとなった。


(週刊サッカーマガジン2001年3月21日号)

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