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スポーツ記者になって(7)

秋田商業高校の優勝

 昭和33年(1958年)は、サッカーにも、私にも、ことの多い年だった。
 新年早々、西宮での高校サッカー選手権で秋田商業が勝って、優勝旗が初めて東北の地へ。チームが泊まっている旅館をたずねると、お手伝いさんより先に玄関へ飛んで出てきて正座して、あいさつするのが秋商の部員。部屋の掃除も配膳もすべて自分たちで、というしつけのよいチームだった。
 上手とはいえないが、フェアで、雪上ランニングで鍛えた足腰は粘り強く、労をいとわぬプレースタイルは後進地、秋田に強チームを作り、この年には平沢や石郷岡といったFWもいて優勝。それも広島の舟入をはじめ韮崎、浦和西、刈谷といったサッカーどころの名門を連覇してのタイトルだった。
「サッカーはよく知らなかったが、毎日グラウンドに立っていた」という剣道7段の内山真先生の指導は、戦争に負けて以来、日本の社会から消えていた“精神”や“心”の重要さを思い起こすものだった。
 その先生の話を軸に「不毛の東北にサッカーの花が開いた」という記事を書いたら、校長が全校生徒の前でその記事を読んで聞かせた、という便りがきた。


東京でのアジア大会―敗戦

 いいことばかりではない。5月、東京でのアジア大会で日本代表は、1次リーグC組でフィリピンに敗れ、香港にも負けて、準々決勝へも進めなかった。参加14チームを4組(4チームが二組、3チームが二組)に分けての1次リーグ。開催国の日本はシードされてC組。3チームだったから、フィリピンに勝ちさえすれば準々決勝に進める計算がはずれてしまった。
 1956年メルボルン五輪の前から若返りを図り、基礎技術の向上を第一としてトレーニングを積んだのだが、フィリピンの徹底した守備戦術と当たりの激しさに、3人のケガ人を出し、ボールはキープできても突破はできず、ゴールは奪えないままに、ただ一度のフィリピンのカウンターで1点を取られてしまった。
 ボール扱いの重視を掲げた川本泰三監督の方針は当然ではあったが、全国的にこの意識が浸透していないために、自分のチームに戻ると別の方針の指導を受ける、ということも惨敗の背景にあった。
「今後は指導理念の統一がいちばん必要だ――といっても、ピンとくる者が協会のなかにもほとんどいない」
 キックオフ誌の反省討論会のとき、代表チームの川本泰三監督が、こう言った。
 その憮然(ぶぜん)たる表情を見ながら、わたしは1月にルディ・マット(No.57参照)から聞かされたオーストリア・スキー教程、初心者からトップ選手まで、同じ理念で統一した指導法と、その整然たる指導組織の話と比べていた。


アジアユース大会を始めよう

 アジア大会のサッカーのチャンピオンは台湾、といっても、香港のプレーヤー、いわば一軍が台湾の名で、二軍が香港の名で参加しているのだが、その台湾と韓国の決勝は、延長で台湾が3−2で勝った。
 とても面白い試合で、サッカーを知らない記者たちも「こういう試合だから、世界各地で人気があるのだね」と納得した。
 アジア大会にも、プラスもあった。インドネシアを指導しているポガチニクというユーゴ人の監督にインタビューしたこと。ザグレブのチームにいてスイスに亡命し、グラスホッパーでプレーし、インドネシア協会と3年契約している46歳の大男にサッカーのテクニックだけで世界を飛び回るプロを見た。
 もう一つ。大会中のAFC(アジア・サッカー連盟)の総会で、アジアユース大会を開催することが決まった。アジアのサッカーの交流のために若年層の育成が急務であり、そのため20歳以下の大会を行なうというのである。第一回大会は1959年(昭和34年)4月――それにわたしが関連するとは、まだ思っていなかったのだが…。
 日本がアジア大会で消沈してからしばらくしての6月、スウェーデンでの第6回ワールドカップでブラジルが優勝し、若いペレの活躍や、世界の熱狂ぶりが外電で伝わってきた。大谷四郎編集長がキックオフ誌第7号にまとめた。日本サッカーにははるかに遠い話だったが…。


(週刊サッカーマガジン2001年3月28日号)

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