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ローマ、東京、メキシコ(1)

10年早く生まれていたら…

 昭和34年(1959年)、第1回アジアユース大会(4月18日−26日クアラルンプール)に参加した日本代表選手団に同行した私は、大会後、シンガポール、バンコクを転戦。香港経由で5月6日に帰国した。
 協会の機関誌ユース特集号へのリポートのほかに、サンケイスポーツに「東南アジア・サッカー見聞録」を6回連載した。当時は大阪だけの発行で、東京では目に触れる機会はなく、監督のロク(高橋英辰)さんは、あとで切抜きを見て「旅行の間にいつも書いていたのは、これだったのか。東京でも読ませたかったのに」と言った。
 運動部で私よりも年長のKさん。レース担当だが、学生時代からのサッカー好き――の言葉「キミがもう10年早く生まれていたら、日本のサッカーはもっと盛んになったと思う。昔からサッカーの記事は試合の批評ばかりで、ボクなんか読んでも、ちっとも面白くないから」には、うれしくもあり、つらくもあり…。


オリンピック待つ東京へ

「東京へ異動」が決まったのは、帰国して1ヶ月後。東京の産経新聞運動部の強化のため、木村象雷が大阪から東京へ移ることになり、キミも東京へどうだ――と言われたが、イヤという筋合いはない。
 実はこの2年前、大阪に関西テレビがスタートしたときに、スポーツ担当にとの話があった。
 阪急と産経、それに電通から人を集めたテレビ局の実質上の責任者の産経新聞・沢村副社長の意向だということで、こちらの知らない間に向こうの中では話が広がっていた。しかし、ゾウ(木村象雷)さんの「いろいろなうわさわあるが、ボクから沢村さんに賀川はダメだと断ったから」でケリ。
 もっとも、テレビに多少興味はあっても、何度か関係者と話をするうち「大相撲の実況はNHKと民放2社がやっているから、実況はやりたくない。それより、その日のスポーツニュースを、海外も含めて夜に集めて、解説をつけるニュース番組を作りたい」と話した。それに対して「各社がやるから大相撲実況はうちもやるのです」という答えが返ってきたので、当方の意欲もいささか減退していたから、未練はなかった。
 すでに、この年5月26日のIOC(国際オリンピック委員会)総会で、オリンピックの東京開催が決まっていた。日本のすべてが、それに向かって動き出す。そのお膝元で勉強しろというのが、ゾウさんの意向なのだろうが…。


ローマ・オリンピック予選の敗退

 移るのに問題はなかった。ただ一つ、入社以来、兄弟のようにしてもらった1年先輩の北川貞二郎と離れるのが心残りだった。
 大相撲で“熱戦一番”という画期的な手法の記事で、記者仲間を驚かせ、大反響を読んだこの人の書き物は“北さん”と親しまれる人柄そのままに、平明でしかも格調があり、持って生まれた才能――「文章は北川クンから学びなさい」(ゾウさん)と言われても、簡単には真似のできるものではなかった。その彼と自分たちの、あるいは他紙の記事を批評し合い、スポーツを、選手を語り合っての7年間だったから…。
 新しい住居は埼玉県入間(いるま)郡福岡村、大字福岡にできたばかりの霞ヶ丘住宅。現在の上福岡市――東武東上線で池袋へ出て、地下鉄で大手町の新聞社へ通う日々が始まる。仕事の内容に変わりはないが、取材範囲が広いのと、メディアが多いのには、さすが――という感じ。
 サッカー界は12月、ローマ・オリンピック・アジア予選で韓国に負けて、出場権を失う。
 13日の第1戦は0−2、20日の第2戦は1−0。得失点差で及ばなかった。
 この年2度、マレーシア、東南アジア遠征を行なった日本代表だったが、この試合の直前に、八重樫、川淵が負傷して、第1戦に欠場しFWが戦力ダウン。第2戦は回復したCF川淵やRW二宮(寛)が、冷雨のなかを突進し、韓国をタジタジとさせた。しかし、1点を奪っただけだった。
 メルボルン以来、課題とした基礎技術の多少の向上はあっても、なお韓国に及ばず。東京オリンピックの開催国として、その前のローマ大会へ送り込む選手団の中に、日本サッカーは加わることができなくなった。
 本郷の宿舎に韓国の金容植監督を訪問すると、川本(泰三)は、ハリコ(播磨幸太郎)は、二宮洋一はと、戦前の選手たちの消息を尋ねた後、あのころは上手な選手がいた、サッカーはスキルが第一と言った。


(週刊サッカーマガジン2001年4月18日号)

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