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ローマ、東京、メキシコ(3)

高1の大器、釜本邦茂

「ちょっと見ておいてほしい選手がいるんや」と、岩谷俊夫が言う。彼について行ったのは野球場での試合だった。昭和36年(1961年)1月の第39回全国高校選手権大会。西宮球技場が主会場だが、試合日程の都合で、当時のプロ野球、阪急ブレーブスのホーム球場も使っていた。
 そのグラウンドにいたのが山城高校1年生の釜本邦茂――前年秋の熊本国体で山城高が優勝し、京都に大器ありとは聞いていたが…。
 毎日新聞のスポーツ記者で、かつての日本代表、協会の技術委員でもあった岩谷は、夜行列車で東京から戻ってきて会場に顔を出した私に、一番に会わせたかったのが「初めて見たときに体が震えた」というこの推奨株だったらしい。
“コーチ”岩谷ほど敏感でなかったのか、体は震えはしなかったが、たいてい見た試合について覚えているはずなのに、そのゲームの記憶はほとんどなかった。ピッチのなかほどで、ヌーッという感じで立っていて、後方からのボールを足を挙げて止めたときの姿勢、そのバランスの良さが、長く頭に焼きついたのだから、やはり強い印象を受けたに違いない。


小城、杉山、宮本輝紀たち

 山城高は2回戦で小城得達(おぎ・ありたつ)や桑原楽之(くわはら・やすゆき)、GK船本幸路(いずれものちの東洋工業・日本代表)のいた広島大付高に敗れる。優勝は前回に次いで浦和市立高、個人技がそろっていて、巧さとともに1対1の粘り強さが群を抜いていた。
“釜本は東京オリンピックに間に合うだろうか――”
 このときから、トッさん(俊夫の名から岩谷をこう呼んでいた)と私との間で、彼のことが何回となく話題になる。
 実は、この大会の数年前、第33、34大会で、私たちは素晴らしいセンターフォワード(CF)、いまでいうストライカーを見た。登場したときが高2で、すでに筋力もあり、スピードと抑えの効いたシュートがとても魅力的だった。浦和高校連続優勝の中心となったこのS選手の破壊力に、だれもが日本代表チームのストライカーと思ったに違いない。不幸にして、そうはならなかったから、私たちは関西から出現したこの大物の順調な伸びを願わずに入られなかった。
 この年の6月、チリ・ワールドカップのアジア予選、対韓国第2戦が東京で行なわれた。前年秋に、ソウルで1敗した日本は、この試合も0−2で敗れた。2年前のアジアユースの1期生、宮本輝紀や杉山隆一たちが代表として戦っていたが…。
 試合に敗れた日本代表の宿舎に、ケーキを持って訪ねたら、選手たちとともに布団をひいて寝転がっていたクラマーが大きな声で「トゥルーフレンドが来てくれた。ドイツでも試合に勝ったときは、たくさん集まってくれるが、負けたときはだれも来なくなる。そんなときに来てくれるのが、真の友人なんだ」と言った。


クラマーと北海道のクマ

 クラマーの指導で、代表チームは技術も伸び始めていたが、試合結果に表れるまでには至っていない。この年の巡回コーチで、彼は京都で山城高2年生の釜本に会う。大学生対象の講習だったが、京都協会の藤田静夫会長(現・日本協会最高顧問)の特別のはからいで、参加したのだった。
「まだ、筋力はついていない。動作は遅い。しかし、将来性は素晴らしい」と、クラマーは目を輝かせたが、釜本には「北海道のクマのようだ」と言ったらしい。それに対して、次の年、クラマーへの選手からの寄せ書きのなかで釜本は「私は北海道のクマにはならない」と書いた。
 多くの人の期待というプレッシャーにつぶされることなく、素材を伸ばしていった大きな要素の一つである、彼の負けず嫌いが、この「クマにはならない」に表れている。
 この年の夏、日本代表はマレーシアでのムルデカ大会に参加した後、西ドイツでの合宿練習と試合を繰り返すため、8、9月の2ヶ月の長い海外武者修行に出る。目に見えた成果はまだなくても、東京オリンピックへ――、コーチと選手たちはしゃにむに努力を続けるのだった。


昭和36年(1961年)の出来事
◎1月 全国高校選手権、浦和市立高が2連覇
◇1月 ケネディ米国大統領就任
◇4月 ソ連、有人宇宙船、ボストーク1号(ガガーリン少佐)打ち上げ、地球を一周
◎6月 チリ・ワールドカップ予選、日本0−2韓国(2戦2敗)
◇6月 東京五輪競技日程がIOC総会で決定。柔道とバレーボールが新種目として加わる
◇8月 東ドイツがベルリンの壁を構築
◎11月 日本代表、マレーシア・ムルデカ大会、ヨーロッパ遠征、ドイツ合宿
◎12月 初の記者投票による年間最優秀選手に長沼健を選考
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年5月9日号)

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