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ローマ、東京、メキシコ(4)

クラマーの直接指導

 東京オリンピックを“錦の御旗”に代表の強化を図る日本サッカーは、1960年(昭和35年)から、夏のムルデカ大会(マレーシアの独立記念大会)参加と欧州への長期遠征、秋の海外チーム招待などのスケジュールを組んで、毎年実行する一方、1959年からのアジア・ユース大会に高校選抜チームを送って、この年齢層からの伸びをも期待した。
 連載の前々号で、1961年1月の全国高校選手権に、山城高1年の釜本邦茂が登場したことを紹介した。トップチームは、欧州の強豪チームとの対戦で、90分のうち対抗できる時間が20分から40分に伸びた、といったレベルではあったが、個人技術や体力のアップと、組織的な動きの質と量の向上で少しずつチーム力も高まっていった。
 また、毎年のユース日本代表の選抜はこの年齢層の素材発掘の点で、大きなプラスとなり、その素材はデットマール・クラマーという優れたコーチの直接指導を受けるという機会もあったし、若い選手たちには、日本代表候補の枠のなかで、年長選手とともにプレーする機会も増えた。
 この1960年から61年のクラマーの指導ぶりで感じたのは、戦術理解と個人指導の両方のうまさだった。個人技術、いわゆる基本技を選手に反復練習させるのに妥協せずに、しかも同じ言葉を何度も繰り返していく粘り強さ、選手の“いま”をつかむうまさがあった。


機を捉えるコーチの眼

 2度目の来日だったが、中大グラウンドでの基礎のヘディング練習でたまたま、私が見ていた日に小柄なMF上野佳昭(中大、古河電工で活躍)に、他の選手よりも50回多く、相手の背後からのジャンプヘディング(それも、ごく基本的な型)を繰り返させた。それから2週間の試合で、上野選手のジャンプヘディングの型が、ピシッと決まっているのに驚いたものだ。
 杉山隆一(明大、三菱)が清水東高を出たばかりで代表候補に入っていたとき、藤沢での合宿でクラマーは、彼一人だけをグラウンドへ連れ出して、後方からのボールのトラッピングを反復したことがあった。ボールを受けるためにタッチラインを背にして戻り、一動作で止めて前を向いて出る――ごく簡単な技術だったが、前を向けばその俊足で相手の脅威となるドリブルのできる彼には、まず絶対に必要な受け方。それを杉山にやらせ、自分で型を見せ何度も繰り返してのみ込ませていた。杉山がその秋、巧みなボールトラップからの早いドリブルで、日本の左サイドからの攻撃を作り出し始めた。
 このプレーヤーに、いまこの技を習得させる時期だ――と判断し、それを実行し身につけさせる――。そっ啄(たく)の機を捉える眼には脱帽のほかはない。ごく最近彼に、どうして選手の“いま”を知ることができるのか――と尋ねたところ、「私にもよく分からないが、直感だと思う」と答え、指導のマニュアルやレシピもあるが、コーチには直感が必要だと言った。


機関誌の充実

 この時期のサッカー界の進歩に、協会機関誌の充実がある。ローマ・オリンピックの前年から機関誌の名称を、それまでの「蹴球」から「サッカー」に変えるとともに、協会常任理事の轡田三男(くつわだ・みつお)を編集委員長に、牛木素吉郎(当時、東京新聞、のち読売新聞)、中条一雄(朝日新聞)らをはじめとする在京のサッカーを愛する新聞人を編集委員に委嘱し、紙面の刷新と定期刊行を心がけた。
 轡田理事も朝日新聞の記者、昭和5年に早大卒業のサッカー人で、いわば後輩たちを招集したのだったが、協会理事の間では多少の抵抗のあった「サッカー」への改題は、新聞人の編集委員によるものといえる。
 もともと、大戦後に「サッカー」という名称を使い始めたのは新聞。当用漢字に「蹴」がないところから、戦前使っていた「蹴球」をこれに変えた。もちろん、フットボールでも世界的には正しいのだが、米国占領下で、フットボールといえば米軍の新聞係は「アメリカンフットボール」と思い込むので、サッカーとなったという。
 こうしたいきさつはあったにせよ、すでに世間に浸透しているサッカーへの改題は、協会が新しい時代に向かう変化の一つだった。東京オリンピックを前にして、名を変えただけでなく、世界へ目を開き、自らの足元を振り返る各号の内容は、新しい歴史を作ろうとする意気込みに満ちていた。


昭和37年(1962年)の出来事
1月   全国高校選手権は40回記念大会で32チーム出場。優勝は修道(広島)。前年秋の国体と2冠
4月   第4回アジアユース大会1次リーグは1勝3敗
5月   第42回天皇杯(京都・西京極)は中大が決勝で古河電工を破る
5〜6月 第7回ワールドカップ(チリ)でブラジルが連続優勝
8月   第4回アジア大会(ジャカルタ)1次リーグで日本はタイに勝ち、インド、韓国に敗れる
9月   ムルデカ大会(クアラルンプール)1次リーグでマレーシア、パキスタンと引き分け。ビルマに敗れ2分け1敗


(週刊サッカーマガジン2001年5月23日号)

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