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ローマ、東京、メキシコ(5)

2年間で西と東を一往復

 1960年から64年、東京オリンピックに向かっての日本と日本サッカーの繁忙期に、私自身も大阪から東京へ、そしてまた大阪へと、住居を移動する仕儀になった。
 オリンピックに向かっての東京運動部の強化を目的に、大阪の運動部長であった木村象雷――通称ゾウさん――が転勤したのに同行して1959年に移ったのだが、2年後には大阪に戻っていた。
 今度の理由は、大阪でのサンケイスポーツの独立化。
 前田久吉という商売上手の社長が販売店の要請を容れて昭和30年(1955年)に創刊した大阪サンケイスポーツは、すでに6年の実績を積んでいて、これを独立した組織にしようと、当時の社長、水野繁雄のブレーンが考え、ゾウさんを大阪へ――ということになったらしい。
 東京での2年は、国立競技場、駒沢競技場などの建設と道路工事で、街中すべてが掘り返されているなかで、各スポーツの競技団体が強化に打ち込むのを見ることができた。そのころの関西ではタイガースと高校野球以外はすべてがマイナーだが、東京ではさすがにオリンピックでメダルを取れる種目はメディアでの扱いも大きく、また東京六大学野球や早稲田、慶応、明治のラグビーなど大学の試合の人気の高さも実感した。


ラグビー記者になったら…

 たまたまラグビー担当の記者が不在のとき、代わりに取材に出かけた私の記事が社内で評判になった。大学の試合での認定トライについて、解説をつけただけのことなのだが、認定ゴールのないサッカーのプラグマティズムを知る者にとっては、ラグビーのこの制度は、ある点から言えば、フェアプレーを重んじるラグビー精神そのものであり、また別の側面から言えば英語圏とフランスだけで行なわれている、いわば気心の知れているファミリー意識の特性を表していると私は思っていたからだった――もちろん紙面ではそれほどの論陣を張ったわけではなく、ルールについてのポイントをつけたのだったが、認定トライを当然のことと考える各紙のベテランの専門記者が触れていなかったから、余計に目立ったらしい。
 著名なボクシング評論家であった石川輝さん(故人)に「感服しました」と言われたのには恐縮した。
 石川さんは、慶応大学出身だったからラグビー好きは当然としても、ほかの仲間でもラグビーの記事への反応の大きさに比べてサッカーの記事への無関心が気になった。
 同年代の記者の一人が、「キミはラグビーを書いた方がいいヨ。ここではラグビーの方がサッカーより人気があるからネ」と“転向”を忠告してくれたのには驚きもし、同時に、自分を売り込まなければならない、東京のジャーナリストの世界の厳しさを垣間見る気もした。
 アマチュア・レスリングを担当し世界選手権を取材したのも、メルボルン・オリンピックの金メダリスト、笹原正三という優れたスポーツマンの話を聞けたのもプラスだった。トルコ代表選手との対戦試合の打合せで、トルコ語の日本人通訳を交えての話し合いが全然進まなくなったときに、笹原コーチが問いただすと、通訳がブリッジという英語のレスリング用語を知らなかったためとわかって、大笑いしたのを横で見ていた。通訳に専門用語を勉強させる必要を感じた。


長沼、岡野 30歳の監督コーチ

 日本サッカーの代表強化は進んでいた。60から61年は2度の欧州行脚(あんぎゃ)を含めて100日に及ぶ合同生活と27試合の対外試合。
 62年は5月に西ドイツの西部地区選抜を迎えた後、8月の第4回アジア大会(ジャカルタ)、9月のムルデカ大会(クアラルンプール)の二つのアジアの公式試合を戦った。ジャカルタ大会は1次リーグ1勝2敗。ムルデカ大会は1次リーグ2分け1敗。
 成績には表れなかったが、ヨーロッパ流への変化は評価を受けるようになった。その秋から代表監督に長沼健が就任、岡野俊一郎がコーチとなった。前年12月にサッカー記者クラブが創設した第1回フットボーラー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、古河電工の選手でもあった長沼は32歳、岡野は31歳。戦前派のロクさん、高橋英辰(故人)からバトンを渡された二人と37歳のクラマー、若いトリオに日本サッカーの未来が託された。


昭和38年(1963年)の出来事
1月 全国高校サッカーで藤枝東が初優勝
4月 第5回アジアユース大会で、日本はグループリーグB組5位(1勝1分け3敗)
5月 天皇杯の会期を5月から1月に移し、この年の第43回大会は64年1月に変更
8月 第6回ムルデカ大会(マレーシア)で日本代表は4勝1分け1敗で2位
9月 東京国際スポーツ大会で日本代表は西ドイツのアマ代表と1−1。京都での親善試合は4−2の勝利


(週刊サッカーマガジン2001年5月30日号)

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