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ローマ、東京、メキシコ(6)

川淵の結婚記念ゴール

 長沼健、岡野俊一郎が監督、コーチとなった日本代表チームは、1962年12月に三ヶ国対抗戦を迎える。来日したのはソ連のトップリーグ2位のディナモ・モスクワとスウェーデン選抜。ディナモはFWのチスレンコやGKのヤシンなど、62年ワールドカップ代表を抱える名門。スウェーデン選抜は若手主力に、DFグスタフソンらの老巧を加えて編成していた。
 初の欧州の強豪チーム同士の対戦が人気を呼んで後楽園競輪場での最終戦、ディナモ対スウェーデン選抜(0−0)は超満員となった。日本代表はスウェーデン選抜にはDFのマークミスで1−5と大敗したが、ディナモとは2−3の好勝負、2年がかりの強化の効果が表れ始めた。
 このシリーズには、日本選抜、全日本ジュニアの2チームも参加して外国チームとの対戦経験を積んだ。
 川口市内での日本選抜対ディナモ(2−2)に出場した川淵三郎に1ゴールの記録があるが、これは前日に大阪で結婚式を済ませた後、すぐチームに合流した結婚記念ゴール。相手が天下のGKヤシンであっただけに、Jリーグ・チェアマンの若き日の誇るに足るエピソードの一つであろう。


ムルデカで2位、西ドイツに勝つ

 1963年は6月から2ヶ月間、Aチームが西ドイツ、オーストリア、デンマークを転戦。Bチームもソ連へ出かけ、Aチームはいったん帰国して再び8月8日からのムルデカ大会のためにマレーシアへ。マレーシア、タイ、南ベトナムに勝ち、韓国とは引き分け。台湾に敗れて、わずかの差で優勝できなかったが、初めて2位となる。
 ラーマン首相のバックアップで毎年開催されるこのマレーシア独立記念大会で、これまでの日本はいわば「お客さん」。開催国マレーシアは初戦の対戦相手に選んでいたのだが、その日本に3−4で敗れたマレーシアのショックは大きかったという。
 秋にはオリンピックのドレス・リハーサルの形で東京国際スポーツ大会が行なわれ、サッカーは西ドイツと南ベトナムの代表チームを迎えて、日本A、同Bチームを加えたリーグ。日本Aは西ドイツと引き分け(1−1)ベトナム(2−1)に勝った。日本Bは西ドイツに敗れ(1−2)ベトナム(1−1)と引き分け。日本A(3−1)に勝って、大会の順位はAより上の2位となった。早大1年の釜本邦茂はまだBチームだったが、ヘディングの上達ぶり、後方からのロングボールの競り合いの強さに目を見張った。
 Aチームは東京大会の後、京都での親善試合で西ドイツを4−2で破る。欧州のアマチュア選手権2位に対する会心の試合は、クラマーと長沼、岡野のトリオにも大きな自信となった。
 この年の11月にケネディ大統領の暗殺という驚くべき事件があり、そのニュース映像がまた初の衛星テレビ中継で送られてきた。


64年天皇杯、釜本の成長

 年が明けると、いよいよオリンピックイヤー、1964年(昭和39年)1月は西宮から大阪のうつぼ公園へ会場が移った高校選手権で、藤枝東が前年に続いて優勝するのを取材した後に神戸へ。王子競技場での第43回天皇杯(1月12日−15日)を追う。高校大会の会場移転は高速道路建設で西宮球技場が使えなくなったためである。
 天皇杯は例年の5月開催からこの年に1月開催になった。これまでの16チームを8チームに減らし、推薦の中大、古河電工、八幡、東洋工業と地区予選を経た日立本社、早大、住友ゴム、関大の参加となった。しかし、古河電工が会社の都合で欠場したため、7チームがノックアウトシステムで争うこととなった。
 早大が東洋工業、関大をそれぞれ2−1で破り、決勝では3−0で日立を下して優勝した。関東学生リーグ、東西学生1位対抗戦と合わせての三冠。DFの西山、MFの森、FWの二村、釜本、桑田、松本らの日本代表候補を持つ陣容――釜本は縦への突破に鋭さを増した。そのころとしては珍しい、個人名を書いた横断幕“がんばれ釜本”を見ながら「どうやら、オリンピックに間に合いそうだね」と、岩田俊夫とうなずき合ったものだ。
 64年2月中旬から3月初めに日本代表は東南アジアを転戦。タイ、マレーシア、シンガポールを回る13日間6試合で4勝1分け1敗。初めて日本代表に加わった釜本は、3試合で先発出場。2試合の途中出場で3ゴールを奪った。


昭和39年(1964年)の出来事
1月 全国高校サッカーで藤枝東が2連覇
    第43回天皇杯開催が前年5月からこの年1月に移行。早大が日立本社を破り、優勝
4月 第6回アジアユース大会で、日本はグループリーグ1次A組3位に終わる
10月 第10回オリンピック東京大会開催
    1次D組 3−2 アルゼンチン
          2−3 ガーナ
    準々決勝 0−4 チェコ
    大阪トーナメント 1−6 ユーゴスラビア


(週刊サッカーマガジン2001年6月6日号)

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