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ローマ、東京、メキシコ(7)

3ヶ月の合宿、3ヶ月の武者修行

 東京オリンピックの年、1964年の1月は高校選手権での藤枝東の2連覇と、初の正月天皇杯(元旦決勝はまだ少し後)での早大の優勝で明け、2〜3月には日本代表の東南アジア転戦での好成績(4勝1分け1敗)が続いた。
 4月に入ると代表候補の3ヶ月にわたる長期合宿が、千葉県の検見川グラウンドで開始された。4月10日から6月14日の9週間は、午前中、通勤あるいは通学し、午後3時からトレーニング、6月15日から6月末までの2週間は、午前、午後の完全強化合宿とし、この間、毎週土曜日には関東大学リーグ、実業団1部の日立本社、三菱重工などとの合計19試合(17勝2敗)が行なわれた。
 この合宿では釜本、山口、森ら若手の伸びがあり、6時30分起床、午後10時就寝という規則正しい生活とフィジカルトレーニング、栄養ある食事と休息によって、選手たちの基礎体力が積み重ねられたのが大きい。
 7〜8月に代表Aチームはソ連、東欧、西ドイツ(当時)、スイスへ武者修行に出かける。7月17日横浜発のソ連船で55時間かかってナホトカに着く倹約旅行、スタートの後はソ連で強豪との対戦。ハバロフスク陸軍クラブ、ロシア共和国選抜、全ソ連選抜、ウクライナ選抜が待っていた(1分け3敗)。8月に入るとソ連からルーマニアに移ってブカレストで2試合(1分け1敗)、8月12日にはブダペストでハンガリー五輪代表(1−5)と、19日にはチェコのプラハで1部リーグ選抜(1−3)と、西ドイツへ入って3試合(2勝1分け)を行なった。
 ソ連、東欧の強豪チームを相手に勝ち星はなかったが、格上の相手にも慣れ、チェコでは釜本が25メートルのFKを決め、杉山が素晴らしい突破を見せて、チェコの五輪代表コーチから「ウチのチームに欲しいくらいだ」と絶賛された。
 遠征の締めくくりとなった9月8日、スイス・チューリヒで行なわれた対グラスホッパー戦は4−0。伝統あるトップ・クラブに完勝して、1ヶ月後の本番への自信を深めた。


代表決定、つらい選択

 一方、8月22日から9月6日までクアラルンプールで開催された第7回ムルデカ大会には、B代表が参加して5位となる。この両遠征チームが帰国した後、9月12日に日本協会は選考委員会を開き、常務理事会の承認を得て19人の東京オリンピック代表選手を発表した。

▽監 督 長沼健(34)
▽コーチ 岡野俊一郎(33)
▽G K 保坂司(27)横山謙三(21)
▽B K 主将・平木隆三(31)片山洋(24)宮本征勝(26)上久雄(23)鈴木良三(24)富沢清司(24)鎌田光夫(26)小城得達(21)森孝慈(20)山口芳忠(19)
▽F W 八重樫茂生(31)渡辺正(28)川淵三郎(27)釜本邦茂(20)宮本輝紀(23)継谷(つぎたに)昌三(24)杉山隆一(23)

 長く代表チームの守りの要として活躍した小沢通宏(32)が外れたのは、選考する側にも、本人にもつらい選択だった。


大阪でオリンピックサッカー

 サッカー界のオリンピックへの足どり、代表の強化ぶりを眺めながらもう一つの重要な計画にもかかわった。それは、東京オリンピックのサッカーを関西にもってくることだった。オリンピックは一つの都市で開催するのが原則だが、サッカーはローマ大会でも、いくつかの都市で行なわれている。日本でサッカーを普及させるためにも、東京とその周辺の一極集中よりも、関西や広島などでグループリーグをもってくることはできないか――そのことによって関西や広島にも(オリンピック好きの日本だから)本格的な芝生の競技場ができるだろう――と考え、関西サッカー協会の川本泰三理事長に相談したところ「ぜひやろう」ということになった。
 もっとも、大会の3年前にこんなことを言い出されては、事務局は困るのは当然。東京オリンピック組織委員会から、まず「オリンピックは一都市開催であり、サッカーは大宮市や横浜市も会場となるが箱根を越えることはない」というのが返答だった。
 川本理事長は日本協会の渉外担当、市田左右一理事の応援を得て、FIFA(国際サッカー連盟)に働きかけ、サー・スタンレー・ラウス会長に直訴した。ラウス会長は、オリンピックの日程に、新しく準々決勝で敗退した4チームによる「大阪トーナメント」をつくり、ノックアウトシステムによる5、6位決定戦をFIFAと日本協会の責任で行なうことを組織委員会に申し入れて了承されたのだった。
 3位決定戦があって1〜4位が決まるから、他の競技のように5位、6位もあっていい――ラウス会長の柔軟な考えは、組織委員会側からは、“こじつけ”に見えたかもしれないが、FIFAが責任を持つと言えば、反対の理由はなかったといえる。実現が決まってから、関西の準備も大変だったが…。


(週刊サッカーマガジン2001年6月13日号)

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