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ローマ、東京、メキシコ(9)

コンフェデ杯とイチロー

 コンフェデレーションズカップは2勝1分け、予想通りの準決勝進出を見届けることができた。この号の発売時には大会は終わっているが、よい試合、よい結果に満足できるように――そして何より選手たちが経験を積み、自分の貯えを増やしてくれることを願いたい。
 新聞によると、この大会の日本の試合のテレビ視聴率がプロ野球の巨人戦のそれより高いことで話題になっているとか。毎週行なわれるプロ野球と、ワールドカップ1年前の国際マッチを同一に論じるのは難しいけれど、日本スポーツ界の“ジャイアンツ”であるプロ野球との数字比べは、大会の関係者には励みになるに違いない。
 プロ野球といえば、イチローの活躍のおかげで大リーグが身近になりNHK BSテレビによって本場のベースボールが楽しめるようになった。面白いのは、日本人としては大きい方の彼が大リーガーの中では、小さく、きゃしゃに見えること。その“小柄”なイチローのバッティング技術――それは150キロの速球を豪快なスイングでぶっ飛ばすのではなく、投手が投げ込んでくる球質を読んで対応し、野手の間を抜く精度の高さが売り物で、たとえ内野手のリーチにボールが飛んでも、捕球のバランスを崩せば、足の速さによって一塁を駆け抜けてしまう――。さらには走塁、盗塁のうまさ、外野手としての打球の行方を見極め落下点へ入る動作の確かさと、素晴らしい送球――その一つひとつが、マリナーズのチームプレーを生かして、勝利に貢献しホームのファンを喜ばせ、メディアでも高く評価されている。


イチローと日本スタイル・サッカー

 日本ではセ・リーグに比べてマイナーだったパ・リーグにいたため球界最高の外野手と言われた彼がテレビに登場する回数が少なく、大リーグに移って初めて毎日、克明に衛星放送で見せてもらうのはまことに皮肉だが、大リーグの中でのイチローを見ていると、私たちが1930年以来心がけ、求めてきた対外試合での日本サッカー、多くの日本人の持つ俊敏性を生かし、不断の努力によって技術を高め、体躯、体力でわれわれより優位に立つヨーロッパ系やアフリカ系のチームに対抗する――のとダブってくるのが不思議でもある。
 カメルーンという身体能力の高い選手の集団や、ブラジルという王国の代表チームを相手に、狙い通りの試合ができるようになったのは、たとえ彼らが遠距離移動のためコンディションが最高ではなかったとしても、トルシエと選手たちが自らの特色を発揮できる戦術と技術を備えてきたから、といえる。
 もちろん、この実力アップには日本サッカー協会、クラブ、選手個々のサッカー界挙げての取り組みがあるのだが、別の視点からいえばサッカー界の総力戦とは遠い、繁栄を誇りながらお偉方が旧態依然として外に目を向けないプロ野球界でイチローとその周辺の一握りの人たちが、大リーグに通じる彼の野球技術を築き上げたことに注目しなければなるまい。
 スポーツの技術向上にあって、環境整備も大切だがプレーヤー一人の心構えや努力の積み重ねが、やはり大きな力であることをイチローは示している。


東京五輪、0−4チェコ

 さて、話を連載に戻すと――。
 1964年10月18日、東京オリンピック・フットボール競技の準々決勝は、午後2時から4会場で行なわれた。東京地方は雨。駒沢競技場でのチェコスロバキア対日本は前半40分で0−0だったが、43分に1−0とされてから次第に差が開いて4−0となった。
 チェコは1次リーグC組で韓国を6−1、アラブ連合を5−1、ブラジルを1−0で破っての進出。ダニュービアン・スタイルの流麗なパスワークのチームだった。日本はこの格上チームに対して専守策をとらず四つに組んだから、その攻防はエキサイティングだったが、時間の経過とともに力の差が表れて、前半43分にディフェンダーのパスを奪われてからの攻撃で1−0、59分にはエリア近くからのパス攻撃で2点目。10分後、PKで3点目を失った。
 D・クラマーはチェコに対する日本の善戦とヨーロッパで定評のあるミッドフィルダー、ゲレタに引けをとらなかった八重樫の動きと構成力をたたえた。前半の好機にゴールしておけば違う流れになっただろうが、まだ東欧のオリンピックチームを脅かすまでには、なっていなかった。
 他の3試合は、

▽ハンガリー 2−1 ルーマニア
▽ドイツ   1−0 ユーゴ
▽アラブ連合 5−1 ガーナ

となった。


(週刊サッカーマガジン2001年6月27日号)

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