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番外編 コンフェデレーションズカップうちそと

コンフェデ杯の2位

 コンフェデレーションズカップの2週間があっという間に過ぎた。日本代表は2勝1分けでグループリーグを突破し、準決勝でオーストラリアを破り、中田英寿のいなくなった決勝ではフランスに敗れて2位となった。
 この雑誌の順位予想の記者アンケート(6月13日号参照)への私の答え(同じ人もいた)通りだったのは、結構なことだった。選手たち一人ひとりが力を出した成果だったし、トルシエ監督も選手の起用や交代がいい結果となったから、自信を深めただろう。いまの日本とすれば、来年のワールドカップ本大会のリハーサルという点で、運営上はともかくとして、代表強化という点ではうまくいったトーナメントだったと思う。
 日本が勝つことでテレビの視聴率も上がり、多くの人が地上波テレビでサッカーを見たこと、そして何より試合相手のカナダ、カメルーン、ブラジル、オーストラリア、フランスの5チームがチームのスタイルも実力も一様でなく、それでいて、体の大きさという点ではどこも日本より優位にあること、そのチームを相手に日本が勝てるようになってきていることを見てもらったのはうれしいことだ。
 同時に、中田英寿が第1、2戦はヨーロッパからの長い旅による疲れ、特に時差によるコンディション不足で、彼としてはミスも多かったにもかかわらず、断然たる強みを発揮して、サッカーというチームゲームの中での個人能力の占める重要さを示してくれたのも、サッカーを志す少年たちに良い手本となったであろうし、指導者たちにはヨーロッパのトップクラスで成功するためには、どれほどの素質と、どれほどの蓄積を必要とするかの良い見本となったといえる。


新潟と最年少特攻隊員

 ここのところ、全国紙の地方版の記者たちとの付き合いが増えた。
 ワールドカップを一年後に控えて高まる報道合戦は、地方版にも及び始めたということらしい。私には神戸や大阪を対象にした話について――だが、この傾向はそれぞれの会場を持つところでも始まっているのだろう。大きなメディアには有能な地方版担当記者がいるだろうから(あの司馬遼太郎さんも、産経の京都支局にいた)、彼らがいい記事を書いてくれることは、サッカーの浸透にとってもありがたい。そんな風に、時間の制約がこれまでよりも多くなった中で、生でコンフェデレーションズカップを見られたのだから…。
 収穫の一つは、初めて訪れた新潟の町――。ビッグスワンと名づけられた美しいスタジアム(雨が降ると濡れる観客が出るのは日本のスタジアム設計の奇妙な共通点だが)や豊かな越後平野と信濃川、そして東と南を限るスカイラインの景観は、素晴らしい――。
 ここは“ぎゅうちゃん”牛木素吉郎大記者のホームグラウンドだけに、ワールドカップへの取り組みも神戸や大阪などよりも、ずいぶんスタートが早く、その一つひとつの催しの中身も濃い。大会中、伊勢丹での「2002FIFAワールドカップ展」も大人気だった。
 私には大戦中の陸軍のパイロット仲間、新発田(しばた)市に住む“五郎ちゃん”こと中村五郎に会ったのが、何より。かつて16歳で日本陸軍最年少の特攻隊員だったのが、新潟ではナンバーワンの空調施行の会社を経営している会長さん。年に1度は“海州振武会”と称する会で顔を合わせてはいるが、彼の本拠地で半日、二人だけでゆっくり時間を持ち、市内を案内してもらい、あらためて生きている幸いを喜び合った。


サッカーの縁の不思議さ

 この五郎ちゃんの次男、謙治氏(43)の夫人、博子さんが、私が中学生のときのライバル、神戸三中のゴールキーパー、神品亮平(こうしな・りょうへい)の長女というから、縁は不思議なもの。神戸三中はこの連載でも登場し、昭和15年(1940年)の全国中学校選手権の決勝で朝鮮半島代表の晋成中学と戦った。スコアは0−4だった。
 話をコンフェデレーションズカップに戻すと、横浜の準決勝、決勝の間に、私は一度兵庫へ戻らなければならなかった。兵庫県サッカー協会の「ワールドサッカーフォーラム」で、釜本邦茂・参院議員とストライカーについて語るためだった。
 コーディネーター役を引き受けた私が、これから数回のシリーズのトップに彼を持ってきたのは、あらためてストライカーへの皆の関心を高めてもらいたかったからだ。関西からは、川本泰三、二宮洋一といった戦前派やメキシコ五輪得点王らの代表的ストライカーを生んでいる。そしていまはまたヴィッセル神戸に、釜本に次ぐ日本代表得点記録を持つカズがいるのだ。
 そのフォーラムを済ませた次の日、横浜のスタジアムでU記者に会った。彼の私への質問は、なんと1940年の神戸三中についてだった。


(週刊サッカーマガジン2001年7月4日号)

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