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ローマ、東京、メキシコ(10)

ハンガリー優勝、得点王ベネ

 前回の番外編、コンフェデレーションズカップから再びクロニクルの流れに戻ることにしよう。1964年の東京オリンピックで日本代表は1次リーグD組2位で準々決勝に進み、チェコに敗れてベスト8止まりとなった。日本チームは10月20日の大阪トーナメントに出場するために、東京の選手村を離れたが、わたしはそのまま東京でスポーツ紙のオリンピックデスク、もちろん取材も――。
 準決勝は、チェコがドイツを2−1、ハンガリーがアラブ連合を6−0で破り、決勝はハンガリーが2−1でチェコに勝った(3位決定戦はドイツ3−1アラブ連合)。
 10月23日国立競技場での3位決定戦と決勝のダブルヘッダー入場券は、すべて前売りで発売枚数6万5888、販売枚数6万5610とほぼ完売。最も高い席が3000円(4421枚)、次いで2000円(7228枚)1000円(1万1205枚)500円(1万4233枚)100円(1万4006枚)となっていて、5034万余円の入場料収入は、当時としては破格の記録。観客はタイトルマッチ2試合の攻防にサッカーの面白さを堪能したのであった。
 決勝では、ハンガリーがチェコのパス攻撃を多数防御で抑え、ベネやファルカシュの俊足を生かすカウンターで一気にゴールを奪おうとした。
 前半は0−0、後半に入ると2分にファルカシュが右サイドをドリブルで突破して早いクロスを送り、その強いボールをチェコのDFが蹴り損ねてオウン・ゴールになってしまった。59分にはチェコの攻め込みに耐えて奪ったボールをベネにつなぎ、ベネがDF二人を抜いてシュートを決めた。チェコは80分に1点を返しただけであった。
 ベネは1次リーグの対モロッコ(6−0)の全得点、対ユーゴ(6−5)の1得点、準決勝の対アラブ連合(6−0)の4得点と合わせて合計12ゴールで、東京大会の得点王になった。
 面白かったのは、試合後の記者会見。今ならインタビュールームが記者で満員になるところだが、その当時はスタジアムの外、小雨の中で数人の記者が囲んで、立ったままでの会話。20歳のベネは、記者たちの質問にボソボソと答えた。だれかが100メートルは何秒で走るのか、と訊ねると「計ったことがないから、知らない」と。
 質問が終わったところで、私が「あなたの目標は偉大なプスカシュのようなゴールゲッターか」と聞くと、「プスカシュのようなプレーヤーになりたい」と答えた。


釜本のゴールとクラマーの提案

 大阪トーナメントは、これまた長居と西京極を満員にして、オリンピック・サッカーを関西に、という企画は成功した。
 準々決勝の敗者チームによる5、6位決定の1回戦(10月20日、長居)で、日本はユーゴに1−6で完敗。同じ日、西京極でガーナがルーマニアに2−4で敗れ、10月22日の長居でルーマニアがユーゴを3−0で破って、5位のディプロマを受けた。
 この企画の提唱者の川本泰三関西協会理事長(故人)は、進言者であった私に、東京オリンピック組織委員会との交渉、FIFAとの話し合いなどの経過をそのときどきに知らせてくれたが、日本の試合が行なわれる前日の電話では、次のように話した。
「新大阪で日本選手を迎えたとき、クラマー監督も選手たちもすでに東京で責任を果たしたという顔つきだったから、対ユーゴ戦はダメだね」と――。
 そのユーゴ戦で唯一のゴールを挙げたのは、釜本邦茂だった。初めてのオリンピックという大舞台で1ゴールも取ることができず、東京での3試合でフラストレーションのたまっていた20歳のストライカーにとっては、ともかく不満解消の一発だったろう。
 オリンピックで沸き立つ東京周辺とは違って、この年はプロ野球の日本シリーズが阪神タイガースと南海ホークスとの戦いとなり、関西ではオリンピック直前までそちらが人気だった。
 大阪トーナメントの入場券を大企業でまとめ買いしてもらうために、川本理事長はその日本シリーズの入場券をプロ野球関係者からまわしてもらい、これを抱き合わせて売るなどした。
 一方、デットマール・クラマーと長沼健監督、岡野俊一郎コーチらは試合が終わると、すぐオリンピック後の戦略策定に入った。
 1964年10月25日、閉会式の翌日、椿山荘(ちんざんそう)でのお別れパーティーの席上でクラマーは、日本のサッカーのための5つの提案をした。
 次の年にスタートした日本サッカーリーグ、Jリーグの前身ともいうべき、プロ野球以外の初の全国リーグは、この提案を実行に移したものだった。


(週刊サッカーマガジン2001年7月11日号)

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