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ローマ、東京、メキシコ(11)

日本サッカーリーグの構想

 昭和40年(1965年)――東京オリンピック翌年のサッカー界は、めまぐるしく、かつ、活気に満ちていた。
 正月の天皇杯、神戸王子競技場での第44回大会は、実業団選手権上位5チーム、大学上位4チーム、前回優勝の早大の合計10チームが参加してA、Bの2組(各組5チーム)に分かれてのグループリーグを行ない、Aから八幡製鉄(新日鉄)が4戦全勝、Bでは古河電工が3勝1分けでそれぞれ首位となって決勝に進んだ。
 両チームの対決は90分間0−0、20分の延長を2回行なってなお無得点で、ともに優勝となった。古河は川淵、鎌田、宮本征勝、八重樫らオリンピック代表とともに監督・長沼も選手として出場、後半も延長も若い八幡のペースだったが、古河の厚い守りと「蹴るところが見えれば、どんなボールにも自信があった」という好調のGK保坂を崩せなかった。
 この大会(1月11日〜17日)期間中に「日本サッカーリーグ」の構想が明らかになった。日本のスポーツ界で、プロ野球以外では初の全国リーグが、関東3(古河電工、日立本社、三菱重工)東海2(豊田織機、名古屋相銀)関西1(ヤンマーディーゼル)中国1(東洋工業)九州1(八幡製鉄)の5地域を地盤とする8企業チームで争われることになった。


クラマーの5つの提案

 東京オリンピックで日本代表チームはアジアの第一位にあることを見せたが、この地位を確保し、さらにレベルアップするために――と前年の10月25日にクラマーが出した提案は5つあった。

(1)日本代表チームは二人のナショナルコーチ(長沼健、岡野俊一郎)の下、毎年1回はヨーロッパ遠征を行なう必要があり、また国内で国際水準の相手と試合をする必要がある。

(2)良いコーチを育て、彼らが日本の一流チームを指導すること。

(3)チームの戦力を高めるためにヨーロッパ各国が行なっているリーグ戦方法をとることが必要。ホーム・アンド・アウェーのリーグ戦は全世界で過去何十年間も行なわれてきた。日本でこれを行なえば短期間で選手は進歩する。

(4)コーチ組織、二人のナショナルコーチがAチーム、Bチーム、ユースチーム、さらにコーチの指導育成において責任を持つべき。二人のほかに各地域で主任コーチを設け、高校、先生、一般選手、コーチ、さらには地域選抜選手を直接指導すること。

(5)東京オリンピックによって、いまの日本には素晴らしい芝のグラウンドがある。これらの手入れを可能な限り行なうこと。国際水準のサッカーの試合は、それにふさわしい芝のグラウンドでのみプレーできる。

 それまで関東や関西といった地域での大学リーグ、社会人リーグはあったが、日本一を決めるのは、一ヶ所に集まっての短期間のトーナメント(大会)であり、その日程の都合上「ノックアウト・システム」が多かった(1965年天皇杯はグループリーグもあった)。これを長期間の、しかも全国リーグにしようとクラマーの直弟子たちが考え、企業、学校のチームの代表と、何度もミーティングを重ねて実現へ進んでいた。
 東京オリンピックの年に開通した東海道新幹線によって移動時間が短縮されたのも大きなプラスだった。
 そういう話し合いの最中にも東南アジア遠征があり、6月6日のリーグ開幕まで、関係者は繁忙そのものだった。


神戸少年サッカースクール開校

 東京での若い力の動きを耳にしながら、関西では、加藤正信ドクターを中軸とするベルリン世代のグループが別の仕事を始めていた。
 兵庫サッカー友の会主催による神戸少年サッカースクールが4月11日に開校した。前年秋、神戸で開かれたオリンピックの成功を祝う会で、次にサッカーが打つべき手は何かが話し合われた。クラマーの提案なども紹介されたとき、私が「いまの選手は小学生のときにボールになじんでいない。もっとレベルアップするためには小学生のころから始めないと――」と言ったのを加藤ドクターが取り上げて、常設の少年サッカースクールの開設に踏み切ったのだった。
 トップチームの強化のための日本リーグと、草の根ともいうべき少年への浸透という二つの新しい動きはメディアに好感を持って大きく取り上げられ、大きなうねりとなった。


昭和40年(1965年)の出来事
◎1月 第43回全国高校選手権大会(今回から大阪・長居競技場が主会場)で浦和市立高校が3度目の優勝
◎1月 第44回天皇杯(神戸市・王子競技場)で八幡製鉄(新日鉄)と古河が決勝。0−0の引き分け、両チーム優勝
◇2月 米軍機が北ベトナムのドンホイ基地を爆撃(北爆始まる)
◎3月 日本代表チーム東南アジア転戦 5勝2分け
◎4月 神戸少年サッカースクール開校
※ ◇社会、◎サッカー


(週刊サッカーマガジン2001年7月18日号)

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