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ローマ、東京、メキシコ(12)

開幕初日に9500人

 昭和40年(1965年)6月6日に日本サッカーリーグが開幕し、東京・駒沢競技場で日立本社―名古屋相互銀行、古河電工―三菱重工、愛知県の刈谷で豊田織機―東洋工業、大阪のうつぼ競技場でヤンマー―八幡製鉄の4試合が行なわれた。
 プロ野球以外の日本のスポーツで初めての、長期間全国リーグの開幕日は、駒沢で4500人、刈谷で2700人、大阪で2300人、合計9500人の観衆が集まった。現在のJリーグ1試合よりも少ないが、関係者は初日の客足で1年目のリーグ運営に自信を深めた。
 8チームによるホーム・アンド・アウェー、1チーム14試合、この年は6月6日から7月4日までを前期として第1週から第5週まで、夏の中断期ののち、9月12日から11月7日の第6週から第14週までを後期とした。
 初代リーグチャンピオンは東洋工業、12勝2分け0敗、得点44、失点9、勝ち点26(当時は勝ち=2、引き分け=1)。2位は八幡製鉄、11勝2分け1敗でわずか勝ち点2差だった。
 両チームの対決は6月27日第4週が東洋工業のホーム(広島・国泰寺高)で2−2、10月10日の第10週(東京・国立)を東洋工業が3−2で制した。第2戦は八幡のホームだったが、東京オリンピックの開催1周年の記念日行事に日本サッカーリーグを、との体育協会からの依頼で国立競技場での試合となった。観衆4万人は日本チーム同士での新しい記録となった。


東洋工業の速攻

 東洋工業(現・マツダ)のサッカー部は昭和13年(1938年)の創部で戦後の実業団選手権大会でも評価されながら、日ごろは中国地方に競合する相手がいないために、タイトルを取れなかった。だが、長期リーグの創設によって、レベルの高い試合を定期的に繰り返すことで急速に力をつけた。
 練習グラウンドを近くに持たない東京・丸の内の3チーム(古河、三菱、日立)よりも練習環境が良いこと、若い選手が多かったことが初年度の優勝と、そのあとの連覇期を生む。
 チーム総監督の小畑実は、戦前の慶大の黄金期のプレーヤー。大学時代は左インナーとして第2列目から飛び出す速さで知られたが、そのスタイルは、この年、早大から加わった桑田に受け継がれ、松本との左サイドのペアの速攻はチームの看板となった。同じく新加入の桑原楽之(やすゆき)は、アクロバティックなシューター、五輪代表の小城(おぎ)は攻撃陣のパスの供給者となった。ディフェンダー陣には丹羽、今西、桑原弘之、石井など堅実派が揃い、GK船本とともに、この年の秋に来日したソ連の強チーム、トルペド・モスクワと好試合を演じるまでになる。
 黄金期の慶大を思い起こすテンポの速いパス攻撃は、相手に引いて守られると効果は薄いが、味方ボールとなったときに相手のマークを外して出るスピード、守から攻への切り替えの速さは、初めてサッカーを見るものにも爽快感を与えた。


早明サッカーもKSSも

 この年、関東大学リーグでは杉山の明大と釜本の早大が、ともに無敗で優勝を争い、早大が優勝した。直接対決となった駒沢での早明戦は、当日入場者が長蛇の列を作り、キックオフが遅れる一幕もあった。
 オリンピックのために観客スタンドのある芝生のグラウンドが生まれた関東とは違って、広島では高校のグラウンド、中京地区では刈谷の野球場などが会場という状態ではあったが、気の早いメディアは“サッカーブーム”を見出しに掲げた。
 1年目の入場者15万人、入場料収入は600万円、その半分でもやっていける予算を組んでいた関係者にとっては、まことにうれしいスタートだった。
 一方、私たち兵庫サッカー友の会が開いた神戸少年サッカースクール(KSS)は第2、第4日曜日に小学校と王子競技場を借りて、小学生14人、中学生48人を指導するというささやかなものだったが、メディアの報道によって、各地に神戸に倣った少年サッカースクールが増えた。
 それらのチームと交歓試合をするためには、KSSにもサッカースポーツ少年団を作る必要があった。小学校単位、中学校単位ならそれぞれの学校長の責任になるが、少年団なら団長の責任だからである。
 サッカーを取り巻く環境はまだまだ厳しかったが、トップリーグも少年への浸透も、とにかく第一歩を踏み出し、その反響は予想以上に大きいようだった。


(週刊サッカーマガジン2001年7月25日号)

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