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ローマ、東京、メキシコ(15)

3年目の日本リーグ・釜本登場

 1967年(昭和42年)4月9日、3年目を迎えた日本サッカーリーグが開幕、8チームによるホーム・アンド・アウェーの総当りリーグの前期(6月11日まで)に入った(後期は10月15日〜11月26日)。
 第1節の注目は、釜本邦茂が新たに加わったヤンマーディーゼル。大阪・長居での対豊田織機には、下位同士ながらテレビ中継もあった。チャンピオン東洋工業vs三菱(広島・国泰寺高校=NHK教育)、古河電工vs八幡製鉄(東京・駒沢=TBS)も電波に乗った。
 雨で泥んこのグラウンドとなった広島では、東洋工業のパスが回らず、三菱が2−1、曇天の駒沢では古河が3−0で快勝した。横浜三ツ沢では、前年の入れ替え戦で名古屋相互銀行を破って、日本リーグに加わった日本鋼管が登場したが、前年6位だった日立本社と戦って2−5で敗れた。
 ヤンマーは前年、1勝2分け11敗の最下位。11月23、27日の入れ替え戦で、日本社会人大会優勝の浦和クラブを1−0、1−1(1勝1分け)で退けてのリーグ残留となった。
 この年の夏には大器・釜本の入社が決まっていたから、鬼武健二主将(現・大阪サッカークラブ会長)をはじめ、イレブンには大きなプレッシャーがかかった。2試合とも試合のスタートはコチコチではあったが、残留への強い意欲が個人技に勝る浦和を抑えた。


ヤンマー最下位から台風の目

 釜本だけでなく、新入社員のサッカー部員は、中大から水口洋次(現・G大阪育成部長)、GK西片信次郎、関学大から出原弘之(現・セレッソ大阪社長)関大から吉川輝夫、上智大から阿部武信らの合計10人という、かつてない大幅な強化を行なったヤンマー。
 釜本効果は第1戦での対豊田3−2(釜本2ゴール)に始まり、第2節の対日立2−1、第3節の対日本鋼管1−1、第4節の前年2位の八幡戦2−2と4試合2勝2分けの成績となって表れた。
 京都・西京極を満員にした第5節の対東洋工業(0−3)に敗れた後は、三菱、古河と負けが続いてしまったが、ブラジルからネルソン吉村が加わった後期リーグは、対東洋工業3−2を含む4勝も挙げて、下位常連の立場からリーグの台風の目へと変身した。
 前期終了の後、6月18日から6月25日まで、ブラジルの名門、パルメイラスを迎えて、駒沢で日本代表との3連戦が行なわれた。ジャウマ・サントスらの代表を含むハイレベルなチームを相手に、3試合とも押し込まれる形になってしまった。しかし、第2戦は小城のPKと釜本の突破とシュートで2−1、南米のプロフェッショナルからの初勝利を記録した。
 この年の夏の海外遠征は、7月下旬から8月中旬までの南米のペルー、ブラジルでの転戦で、6戦1分け5敗――テクニックに優れた相手との1対1での対応を磨いた。
 釜本はこの遠征を通じて、ブラジル流のトラッピングにヒントをつかんで、ネルソン吉村との練習から、彼独特の胸のトラッピングからシュートへの型をつくるようになっていった。


メキシコ五輪予選を突破

 9月27日から10月10日まで、東京の国立競技場で、第19回メキシコ五輪フットボール競技アジア第1地域予選が開催された。
 日本代表はフィリピン(15−0)、中華民国=台湾(4−0)に勝ち、レバノンをも3−1で下して3戦全勝で、同じく3勝の韓国と10月7日に対戦、雨中の国立競技場を埋めた4万5000人は3−3の攻防に沸いた。
 日本は速いテンポのパス攻撃で、韓国の守りを崩して2点を奪い、3点目のチャンスもあったが、ゴール前でのイレギュラーバウンドで逃して前半は2−0で折り返す。韓国は後半に入るとロングボールを多用して、プレスディフェンスで中盤を拾って追い上げて、3−3の引き分けとなった。
 後半に、杉山が相手のタックルを受け、転倒して肩を痛めてしまったことも響いたが、この死力を尽くした戦いは、NHKのテレビ放送を通じて、多くの人の心をとらえた。韓国は最終戦でフィリピンに勝ったが、得失点差の大きい日本は、その次の日のベトナムに勝てばいいことになった。
 10月10日のこの日の試合では、11日間に4試合を戦った疲れと、優勝(本大会出場)のプレッシャーにあえぐイレブンの動きはぎこちなかった。
 ベトナムの厚い守りを崩せず、満員の場内は重苦しい空気に包まれたが、後半に相手GKのミスキックを拾った杉山のドリブルシュートで1ゴールの辛勝を収めた。日の丸を持って場内を1周するイレブンとそれを追うサポーターの姿は、60年代の日本サッカーの象徴的シーンとなったのだった。


(週刊サッカーマガジン2001年8月22日号)

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