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ローマ、東京、メキシコ(16)

メキシコへの休みなき努力

 1967年10月10日、メキシコ五輪アジア第1地区アジア予選で4勝1分け、得点26、失点4の成績を挙げた日本代表は、韓国代表(4勝1分け、得点17、失点5)を得失点差で抑えて、メキシコへの出場権を獲得した。
 3年前の東京五輪は、開催国として予選を免除されていたが、今回は実力で勝ち取った出場権。これは毎年春の東南アジア遠征、夏の欧州あるいは南米での長期の転戦といった強化策や、65年創設のトップ8チームによる日本サッカーリーグの成果だった。
 国立競技場での劇的なフィナーレの5日後、10月15日からその日本サッカーリーグが再開。11月26日までの7週間に、各チームが7試合を戦った。
 優勝は東洋工業(現・サンフレッチェ広島の前身)。前期は、開幕戦で三菱に敗れただけの6勝1敗。後期は、メキシコ五輪予選で負傷した小城をスタート時から欠いていたため、第9節でヤンマーに2−3で敗れ、第10節も豊田織機に3−3で引き分けて、三菱にトップを奪われた。しかし、ベストメンバーを組めるようになった第11節以降に立ち直り、第12節の三菱戦を3−2で勝って、首位を奪った。
 この後期からヤンマーにネルソン吉村大志郎が登場。ブラジル育ちのテクニックで釜本を助けてヤンマーをリーグの人気チームに押し上げた。


欧州ベスト4のクラブと

 リーグ戦が終わると、日本代表候補はすぐに招集され、三国対抗・朝日国際大会に出場することになった。ソ連の中央陸軍クラブ(略称CSKA=チェスカ)、チェコのデュクラ・プラハ、日本代表とのリーグは、▽12月2日、日本2−2CSKA▽12月10日、デュクラ3−1CSKA、▽12月17日、デュクラ2−0日本という結果だった。
 2勝して優勝したデュクラは、66−67シーズンの欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)でベスト4進出の実績を持つチーム。主将のマソプストとゲレタの二人のMFによる中盤からの攻撃展開は長短、緩急自在。
 もともとチェコのプレーは、精巧でスローテンポが基調だったが、62年ワールドカップ・チリ大会で2位となったとき、チェコ代表の中心だったマソプストが、突如として送り込むロングパスの早さと正確さ、そしてそのタイミングを読ませない巧みさに驚かされた。
 36歳の彼を助けたのは、24歳のゲレタ。4FB(フルバック)の前の、いまで言うボランチ役だが、幅広い動きを見せ、対日本代表戦の2点目は、彼がロングシュートで決めたものだった。
 三国対抗シリーズの最中である12月6日に大阪で、釜本邦茂の西ドイツへの短期留学の計画が発表された。
 チームゲームの選手が、単身で海外へ留学するのは初めてだったから、驚く人も多かった。しかし、西ドイツの高いレベルでのトレーニングや練習試合のなかで、釜本の個人能力のアップを図ることは、67年度のヤンマー入社時から、彼の早大の先輩であり、ベルリン五輪(1936年)の日本代表センターフォワードだった川本泰三・関西協会理事長と、山岡浩二郎・ヤンマー・サッカー部長との話し合いのなかで、すでに決まっていたことだった。


釜本の単身西ドイツ留学

 釜本はこの後、12月11日から14日の天皇杯と17日の対西ドイツアマチュア代表戦に出場した後、帰国するドイツ・チームと同じ飛行機で飛び立った。
 このプランにはもちろん、デットマール・クラマーがかかわっていた。西ドイツの西部にあるザールラント州都のザールブリュッケンのスポーツ・シューレと決め、秋には山岡部長が自身で出向いて、ザールラント州サッカー協会のヘルマン・ノイベルガー会長(1919−1992)に依頼していた。
 同会長は、のちに西ドイツ協会の会長、FIFA副会長ともなった実力者。そのおかげで、ユップ・デアバルコーチの指導を受けることができた。
 スポーツ・シューレの素晴らしい設備のなかで、のちに西ドイツ代表監督となる優れたコーチの下で、若いドイツ人選手とともに過ごした2ヶ月。わずかの期間で、釜本は大変身を遂げてしまう。
 西ドイツの若手有望選手とのプレーで、彼のボールの処理からシュートへかかる動作は早くなった。自身もストライカーであったデアバルのレッスンで、シュートにもさらに磨きがかかった。
“得点力アップ”という日本代表の重要課題の一つが、ストライカーの単身留学で大きく前進し始めた。間もなく私たちは、それを目にできるようになるのであった。


(週刊サッカーマガジン2001年8月29日号)

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