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ローマ、東京、メキシコ(17)

釜本、ドイツ留学の成果

 1968年4月14日、日本サッカーリーグ(JSL)第1節のヤンマー対名古屋相銀戦で、私たちは釜本邦茂の驚くべき変身を見た。開始20秒、ペナルティー・エリア外で、左からのパスを受け、反転してのシュートでゴールを奪った。ボールを受けて、ターンし、シュートする動作の早かったこと。これまでボールを止めてシュートに移るのに時間がかかると言われてきた、かつての姿はなかった。
 3ヶ月前に、彼をドイツへ送り出した後、羽田空港で、これも日本を離れるデットマール・クラマーと話をした。
「2ヶ月程度の留学で、釜本にどの程度の上達が期待できるのか。たとえば、トラップ、フェイント、シュートと、ボールを受けてからシュートまでの彼の動作は、イチ、ニイ、サンといった感じなのが、一連の動きとしてスムーズに早くなるのだろうか――」
 こちらの問いに、クラマーは「前日の西ドイツ・アマチュア選抜との試合(0−1)でも、彼は相手ゴール前でのヘディングをほとんど勝つようになっていた。この時期の留学で、彼はさらにうまくなると思う。まあ、帰ってきたときの“カマモト”を見てほしい。シュートの動作もそうだ」と、自信ありげに答えたのだった。


極東のベスト、ハースト

 リーグ戦の開幕前、日本代表は3月20日に日本を出発し、メキシコ、オーストラリア、香港を回って、4月8日に帰国した。
 10月のオリンピック本番に備えて、高地での試合体験を積んで、高度順応の対策を練ることと、サッカーの新興国オーストラリアのセミプロとの対戦、香港での対香港選抜が目的で、釜本はドイツから飛んでメキシコで合流した。
 3月26日にアステカでの対メキシコ五輪チームの試合は、0−4で完敗した。日本からの時差と高度と乾燥気候の影響は、予測していたとおり、大きなハンデとなった。しかし、このときの経験とデータが10月に生かされ、コンディションを完璧に近い状態にまで整えることができるようになる。
 メキシコからロサンゼルス、サンフランシスコを経て太平洋を南西に飛び、19日にシドニー着、30日(シドニー)、31日(メルボルン)、4月4日(アデレード)で行なわれたオーストラリア選抜との対戦は、ハードな日程にもかかわらず、2−2、1−3、3−1の1勝1分け1敗だった。
 この試合で日本チームのスピードと技巧が評判となったが、特に4得点した釜本については、自らサッカー専門誌を編集発行しているディットレ記者がこう記した。
「日本にジョージ・ベストやハースト(66年ワールドカップ決勝でハットトリックを達成)に匹敵するフォワードがいると言ったならば、おそらく疑うであろう。しかし、あなた方がもし、実際に彼のエレガントなボール扱いや、素晴らしいシュートを見れば、極東に新しいスター・ストライカーが現れたことを信じるだろう」


アーセナル・ゴール

 日本リーグの前期は、5月下旬に2週間の中断。その時期にイングランドからアーセナルを迎えて、日本代表との3連戦が行なわれた。
 5月23日、国立での第1戦は、開始15秒でアーセナルの先制ゴール。キックオフ後に、日本の自陣での二つ目のパスを奪ったアーセナルのゴールドの突進、そして彼のパスを受けたラドフォードの20メートル強シュートは、まさにイングランドのプロ――それに対して8分に、右の渡辺からの早いクロスに合わせて、釜本がDF二人の間に割って入ってダイビングヘッドで同点ゴールを挙げた。スタンドの観衆は、アーセナルの迫力と、それに対応する日本代表に、かつてない興奮と緊張を味わった。
 後半に入った81分にアーセナルが2点目を決め、86分にもPKで追加点を挙げた。しかし、相手DFの前へ飛び込み、本場のお株を奪う釜本のアーセナル・ゴールは、強い印象を大観衆に与えた。
 第2戦は福岡(5月26日)の平和台野球場でアーセナルが1−0。第3戦の国立(5月29日)は、500円と1000円の前売りも、300円の当日券(3万枚)も完売。日本は積極的に攻めていき、釜本のシュートがバーを叩く場面もあったが、終わってみれば、4−1の敗戦となった。
 バーティ・ミー監督、のちにアーセナルの二冠を達成する名将は、「日本は西欧のアマチュアにひけをとらない。メキシコ五輪での健闘は、期待できるでしょう」と言い残した。
 JSLが6月30日に前期を終えると、日本代表は7月13日にソ連、西欧への遠征(8月13日まで)に出発した。本舞台まで、あと3ヶ月だった。


(週刊サッカーマガジン2001年9月5日号)

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