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ローマ、東京、メキシコ(18)

羽田を経つ日、杉山隆一

 1968年9月22日朝。
 10時30分羽田発JAL52便で、日本サッカーのオリンピック代表、長沼健監督ら役員と、18人の選手はロサンゼルスを経由してメキシコ市に向かった。
 選手の75パーセントにあたる14人が東京オリンピック代表。年齢は24歳以下が6人、25歳から27歳が6人、28歳から30歳が4人、31歳から35歳が二人。まずは、国際経験を重ねた若くて勢いのあるチーム編成といえた。
 彼らが羽田を飛び立つ直前、空港のレストランで宮本輝紀、杉山隆一とお茶を飲んでいたとき、杉山が、いつになく、自分から「今度は、しっかりやりますからね」と強い口調で言ったものだ。
 短い時間だったが、その会話の中で、ストライカー釜本を生かす役に徹する杉山の“吹っ切れた”姿を見た。
 杉山は宮本とともに東京、メキシコ両大会の主力となった1940年代生まれの、私の言う「40年代世代」のトップで、宮本は振りの小さな右足の正確なキックで、杉山は“黄金の足”のスピードと、ゴール感覚の鋭さで頭抜けていた。
 第1回アジアユース初戦のドリブル・シュート、東京オリンピック・対アルゼンチン戦の0−1からの同点シュート、そして67年メキシコ予選最後の対ベトナム戦での決勝ゴールと、彼はユースから日本代表まで8年間、重要な試合の重要なゴールを切り開いてきた。その非凡なストライカーにとって、大変身した釜本をシューターとして彼に点を取らせる代表チームの作戦は、理解はできても“吹っ切る”には簡単ではなかったろう。
 クロスもシュートもうまい杉山がその突破力をちらつかせて、相手ディフェンダーを脅しつつ、釜本へ見事なパスを送る――。
 メキシコ大会での日本チームの攻撃絵巻は、チーム首脳の決断と、それに全力を注いだイレブンによって何度も繰り返され銅メダルにつながるのだが、その“縁の下の力持ち”役を引き受ける二人のスターのひそやかな決意は、とても嬉しいものだった。
 後に杉山との長い対話の時間を持ったとき「自分のボールの持ち方をして、パスを受ける相手にどこへ、どういうボールを出すのかを知らせるようにした」と聞き、メキシコで“吹っ切れた”彼の哲学を知ったのだが…。


第1戦、釜本3ゴール

 出発の日から10月14日の第1戦まで23日間あった。チームはロサンゼルスでの3日滞在で“時差”を調整した。
 9月25日にメキシコ市入りして、2度の練習試合を含んでの高地順応時期、さらには低地クエルナバカの休養と調整、再びメキシコ市へ戻っての練習、そして10月11日には試合地のプエブラへ――と綿密なスケジュールが組まれていた。

 日本のグループリーグB組の相手は、ナイジェリア、ブラジル、スペイン。ほかの組を見てみると、下記のとおり。

A組:メキシコ(開催国)コロンビア、フランス、ギニア
B組:ハンガリー(前回優勝)エルサルバドル、モロッコ、イスラエル
D組:チェコ、グアテマラ、ブルガリア、タイ

 10月14日の試合は午後3時キックオフ、日本は鎌田をスイーパーに、小城(おぎ)と森が中央を、右を宮本(征勝)左に片山。中盤は八重樫と宮本輝、FWは松本、釜本、杉山。相手のナイジェリアは、守るときに4−4−2で、攻めるときはFWは3になり4にもなる。
 先制は日本で、24分に八重樫のFKから杉山がキープして、前に出た八重樫へ。八重樫は一つフェイントを入れ、左足でゴール前へクロスを送ると、釜本がヘディングで決めた。その10分後、ナイジェリアもシュートを決めて同点。
 しかし、日本ディフェンスの乱れはこのときだけ。後半は雲が出てやや涼しくなって、日本には良いコンディションになった。
 28分に杉山へのファウルで得たFKから2点目が生まれた。八重樫が縦にボールを送り、杉山が走って中へ。宮本輝が走りこんだが触れず。ゴロのパスは釜本へ。
「彼の左足が動いたと見たとき、ナイジェリアのゴール右隅に飛んでいた」(長沼監督のレポート)

 攻撃の起点になっていた八重樫が足首を痛めて、桑原と交代し、釜本が下がり目となる。
 タイムアップ近くに相手のゴールキックのミスを拾った釜本が35メートルの右足シュートを右上隅に決めた。
 3−1。2点差の勝利は上々のスタートだった。


(週刊サッカーマガジン2001年9月12日号)

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