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ローマ、東京、メキシコ(19)

0−1からの同点

 1968年10月14日、メキシコ五輪のサッカー1次リーグB組第1戦で、日本は3−1でナイジェリアを破った。B組の2位以上となって、ベスト8に進むためには勝ち点4(当時は1勝が2勝ち点)が目標で、まず、50パーセントをつかんだことになる。ただし、第2戦を失うと余裕がなくなるから、勝てなくても引き分けにしなくてはいけない。
 10月16日、その第2戦。相手のブラジルは第1戦でスペインを圧迫しながら0−1で敗れ、いわば背水の陣。事前の情報によると、日本についてよく研究しているという。昨年夏に日本代表はブラジルで4試合しているし、また来日したパルメイラスからの情報も得ているだろう。
 このタフな試合に臨む日本は、第1戦と同じスイーパーシステムで、4フルバックはクローズド・マーク。八重樫を負傷で欠くリンクマンには、宮本輝と釜本が入り、センターフォワードには桑原を起用、釜本は戻って守備を十分にと指示された。
 9分にブラジルが先制。左CKを長身のセンターフォワード、フレッティがヘディングした。GK横山がパンチに飛び出し、西日を目に入れてボールを見失ってしまった。
 後半に桑原に変えて宮本征を投入し、釜本をトップに上げた日本のプレッシャーに、ブラジルは全体的に後退、反撃よりも時間稼ぎをはじめる。その露骨さにスタンドからもブーイング。日本側にやや焦りも見えたとき、渡辺正が松本に代わって送り込まれた。その2分後、渡辺が同点ゴールを決める。杉山の左サイドからのクロスに、ファーポストで釜本がヘディング。長身のブラジルDF陣よりも高くジャンプし、ゴール前へ。渡辺のダッシュとぴたりと合った。
 苦しみながらの引き分けで、2試合を終わって勝ち点は3。


勝利か、引き分けか

 第3戦の相手は2勝のスペイン。会場はアステカ・スタジアム。日本チームは16日の夕食後、プエブラからメキシコ市の選手村に戻った。
 ベスト8が手の届くところに来ると、準々決勝の組合せが気になる。日本がB組1位なら、A組2位のメキシコとの対戦。彼らは第2戦でフランスに1−4で敗れたが、17日にはギニアに4−0と快勝している。アステカでその試合を偵察した長沼監督たちは、開催国チームとサポーターを相手にするより、A組1位のフランスの方がやりやすい、したがってB組2位のほうがいいと判断した。とはいえ、スペインに負けてよいとは言えない。ブラジルがナイジェリアに大勝することもあり得るからだ。
 この状況下で、日本は鎌田のスイーパーと4フルバックのクローズド・マーキングなどこれまでどおりのやり方。DFに宮本征、MFには森と宮本輝。FWに渡辺、釜本、杉山。
 前半0−0、プエブラ会場からナイジェリア3−0ブラジルのスコアが知らされる。試合相手のスペインにも、微妙な変化が見える。「彼らはどうしても日本に勝つという感じではないように見えた」(長沼監督)
 70分にブラジルは1点を返したが1−3。準々決勝進出を確信した日本は、宮本輝に代えて湯口を起用。八重樫の負傷以来、中盤で働き続けた宮本輝を休ませるためだったが、同時に湯口の口から全員に「引き分けにすること」を伝えさせた。
 その指示がうまく伝わったのか? 結局は0−0で終わり、望みどおりになったが、監督は日本のシュートが3本、ポストやバーに当たるのを複雑な気持ちで見る奇妙な体験をした。


君たちは歴史をつくった

 伝統あるフランスとの対戦は――最も危険な選手ナネカンには山口、アウトサイド・レフトのドマンタンに片山、ゲームメークのルアヌーに宮本征が密着。鎌田をスイーパーにし粘り強く守る。相手のライン・ディフェンスは早めのクロスで破る――強豪に対する戦略はシンプルなものだった。
 25分、左サイドよりの宮本征からのパスが右へ出て、釜本がドリブルで突進。右の強いシュートで先取点。突進中にバランスを崩しかけたが、体勢を立て直してシュートへ持っていった釜本の復元力。左から走り込んでGKデオンの注意を引き付けた渡辺の動きが効いていた。
 フランスも1点を返し前半1−1。しかし、59分に杉山―釜本で2点目を奪う。杉山からのパスを胸でトラップしてシュート。そしてその11分後、中央のFKを宮本輝から小城へ、小城が右へ大きく振って釜本へ。釜本がドリブルで中央へ送り、渡辺が左下隅へ決めて3−1となった。
 安定した守りの上に立っての2ゴール差。試合の後でデットマール・クラマーは選手たちに言った。
「君たちは歴史をつくった」
 1984年欧州選手権取材のとき、私は一人のフランス人に声をかけられた。「カマモトは元気か。メキシコでは素晴らしかった。よろしく伝えてほしい」。ミッシェル・ラルケ、68年フランス五輪チームのMFだった。


(週刊サッカーマガジン2001年9月19日号)

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