賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ローマ、東京、メキシコ(21)

ローマ、東京、メキシコ(21)

チャンピオンズ・カップよりも

 1975年5月末、バイエルン・ミュンヘンの欧州チャンピオンズ・カップ(現・チャンピオンズリーグ)優勝を告げる紙面に、心に残る言葉があった。
 パリのパルク・デ・プランスでの対リーズ・ユナイテッド(イングランド)との激戦を制したバイエルンのデットマール・クラマー監督が記者会見の席上で「あなたにとって、チャンピオンズ・カップの優勝は、最も誇るべき勝利ではありませんか」と聞かれたとき、「私の最も誇りに思う勝利は、メキシコ・オリンピックでの日本の3位、銅メダルである」と答えたというのだった。
 1960年から東京オリンピックを挟んで8年間、日本サッカーを指導し、改革してきたクラマーは、このメキシコ大会の後も、FIFAコーチとして世界中を巡回指導したが、76年の年初からバイエルンの監督を務め、不調のどん底にあったチームを欧州連覇にもっていった。
 その欧州最高の栄誉より、メキシコ・オリンピックの方が・・・というのだから。


全員が全力を出し切る

 昨年、クラマーに長時間インタビューをする機会があったので、真意を聞くと――
「75年のその話は、よく覚えている。私がメキシコ・オリンピックの方が上だと答えた理由? それは二つにある。
 第一、メキシコ・オリンピックでは日本はまったくアウトサイダーだった。そして戦った相手は、(当時のナイジェリアはともかく)ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコ。どれも世界のサッカーで伝統と実績を持つ強国――。それと戦っての銅メダルですよ。
 バイエルン・ミュンヘンの75年の勝利も立派なものだ。しかし、このチームには、74年ワールドカップ優勝の西ドイツ代表が6人もいた。ベッケンバウアーも、マイヤーも、ゲルト・ミュラーも、世界に名だたる選手ばかりだ。しかも彼らは、前年にすでに欧州チャンピオンになっている。
 それに比べれば、メキシコの日本代表は大会前はまったく無名のチームだった。
 二つめの理由はこうだ。3位決定戦で彼らは全力を出し切った。バスで選手村にたどり着くと、彼らはそのままベッドに倒れこんで、眠ってしまった。全員がそうだった。メンバーのすべてが、力を出し尽くしていたのだ。
 一人、二人が全力を出し切る例はあるが、全員がこれほどまでに力を使い果たしたチームは、その後も見ていない。
 そういう、素晴らしいイレブンを指導したことを誇りに思っている」


得点王、カマモト

 全員がベッドに倒れこみ、死んだように眠り込んだ――力を出し尽くしたイレブンの姿に感動したのは、クラマーたちだけではない。スタンドから選手村へ追ってきた記者たちもまた――。この日、大阪の新聞社で、私は釜本の喜びの声を聞くことにし、現地の特派員に試合後、釜本を電話口に出してもらうように手配していたのに。
 現地からの連絡は「選手たちがぶっ倒れて眠り込んでいて、とても起こすわけにはいきません。しばらく様子を見てから連絡します」だった。
 応接室で待機していたヤンマーの山岡浩二郎総監督にも事情を説明して、いったん解散したのだが、特派員が1時間ほどのちに選手村を訪ねると、釜本たちはすでに外出してしまった後。
 彼らは30分ほど眠った後、一斉に起き上がりシャワーを浴び、「ハラが減った」と服を着て、食事に出て行ったという。おかげでこの企画は流れてしまった。
 釜本はこの大会で、日本の9得点のうち7得点を記録して、大会の得点王となった。その内訳は、
▽対ナイジェリア《3得点》
 (1)ヘディング(2)左足ダイレクト(3)右足35メートルのロングシュート

▽対フランス《2得点》
 (1)ドリブルシュート:右(2)胸のトラップから右足シュート

▽対メキシコ《2得点》
 (1)胸でトラップして左足シュート(2)パスを受け右足シュート

 7ゴールのうち、右足が4点、左が2点、ヘディングが1点。また日本では渡辺正が2得点しているが、その渡辺へのラストパスは2本とも釜本。ブラジル戦のヘディング、フランス戦は彼が右から中へ入れたパスだった。
 その釜本をクラマーは、11月のブラジル体協創立50周年記念試合で、ブラジル代表を相手にする世界選抜チームに加えるようにと計らってくれた。
 いまの時代なら、だれもが逃す手はない――と考えるはずだが、当時はこの舞台の大きさを知らず、またオリンピックで力を使い果たし、とにかく帰国しようとの思いから、参加を断ったのだった。


(週刊サッカーマガジン2001年10月3日号)

↑ このページの先頭に戻る