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メキシコの余韻の中で(1)

日本リーグも人気急上昇

 1968年(昭和43年)秋から69年正月にかけて、日本のサッカー界はメキシコ・オリンピックの余韻にひたっていた。
 明治生まれの先輩たち、とりわけ昭和5年(1930年)の極東大会以来、営々として日本サッカーのレベルアップに尽くしてきた世代にとって、オリンピックでのメダル獲得の喜びは、格別なものがあっただろう。
 日本協会の竹腰重丸理事長は、メキシコでのFIFA会議に出席し、合わせて日本の全試合を見た一人。機関紙88号に、「歴史が作られるのを見た」とのリポートを執筆。自らの選手、あるいは監督としての経験の上に立っての試合分析を行ないながら、喜びをかみしめていた。
 そのなかで、日本のフェアプレー賞受賞について、日本の受賞は当然のことであり、フェアプレーはわれわれの伝統であって、将来ともこの伝統を守っていきたい、とも述べていた。
 竹腰理事長と同世代の田辺五兵衛・元日本協会副会長(1908年−1972年)は「こころ祝いだよ」と言って、私にドイツ製の白黒ボール型をした卓上時計を下さった。うれしくてうれしくて、何か祝うものはないかと、何軒かデパートを歩いていたら、たまたま見つけたのだという。
 ドイツで白黒ボールを見つけ、日本リーグ開幕のときにこのボールの使用をアドバイスした田辺さんらしい選択だった。そこにはドイツ人、クラマーへの敬意があったかもしれない。
 代表チームが帰国して11月10日から再開された日本サッカーリーグの後半戦の人気も高まり、普通は客足の少ない北九州、大谷球場でも、八幡(新日鉄)−ヤンマーに4000人が集まった。
 第9節(後期第2節)の三菱−ヤンマー(国立)は4万人、第10節のヤンマー−古河(長居)は満員の2万3000人が集まった。


天皇杯、元旦決戦はヤンマー

 1963年度(昭和38年度)から天皇杯を翌年1月開催(それまでは5月開催)としていたが、68年度から元旦を決勝当日とした。
 参加はここしばらく同じ、日本リーグ4、学生4の合計8チーム。12月25日からのKOシステムだった。
 1回戦で日本リーグ1位の東洋工業が大学選手権4位の早大に2−1で敗れる波乱があったが、リーグ2位・ヤンマーが立教大(大学3位)、三菱(3位)が関西大(2位)を、八幡(4位)が東京教育大(1位)を破った。
 準決勝で三菱が延長の末、早大を退け、ヤンマーが釜本の2得点で八幡を破り、元旦決勝は杉山の三菱、釜本のヤンマーの対決となった。ヤンマーが1−0で勝ち、創部以来初めての日本のタイトルを取った。
 唯一の得点は、前半2分に釜本が決めた。右斜め後方の阿部からのパスをCFBを背にして、左へ――と見せかけて、右に反転して左足シュートを決めたもの。得意の右足のシュートをおとり、あるいは脅しにしてのフェイントだが、両足のシュートに自信を持つ彼らしいゴールだった。


W杯予選への再出発をしたが…

 その正月が済むと、日本代表が目標の70年ワールドカップ・メキシコ大会の予選に向かっての強化に踏み出す。
 3月にメキシコから地元のクラブチームのベラクルス、5月にミドルセックスワンダラーズ(全英アマチュア選抜)、6月に西ドイツのボルシア・メンヘングラッドバッハがそれぞれ来日して日本と戦い、7月30日から日本代表は西ドイツ、フランスを転戦(8月19日まで)。さらに9月中旬にはブルガリアのチェルノ・モレを迎えて仕上げの4試合の後、10月10日からのソウルでのワールドカップ予選に臨むことになっていた。
 そのボルシア・メンヘングラッドバッハとの対戦を前に、釜本が肝臓障害で入院した。ビールス性肝炎との診断で、回復には時間がかかるとみられ、メキシコ・オリンピックまで上昇一途だった日本代表の勢いに影が出はじめることになる。
 西ドイツ・ブンデスリーガの強豪ボルシアには、フォクツやネッツァーがいて、特にネッツァーのカーブのかかったロングパスが、日本の観衆に強い印象を与えたが、ボルシアのバイスバイラー監督は、何度も「カマモトのプレーを見たかったのに…」と私に言った。


1969年(昭和44年)の出来事
◎1月 天皇杯が初の元旦決勝(NHK全国放送)となり、ヤンマーが初V
     全国高校選手権で初芝高が初V
◇1月 東大安田講堂の封鎖解除
◎4月 第11回アジアユースで日本は1次リーグC組で1勝1敗。準々決勝で敗退
◎5月 パリのユネスコ本部でメキシコ五輪日本代表のフェアプレー賞受賞式
◎6月 釜本邦茂、肝炎で入院
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年10月10日号)

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