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メキシコの余韻の中で(2)

一握りの努力の限界

 1964年(昭和39年)の東京オリンピックを迎えるにあたって、開催国として恥ずかしくない成績を挙げたいという願いから、当時としては画期的な「外国人プロコーチ」の指導を受けること、かつてない大掛かりな代表強化策(時間的にも財政的にも)を進めたこと、外国人プロコーチにデットマール・クラマー、指導陣に長沼健、岡野俊一郎といった、それぞれ30歳代の若く優秀な人材を得たこと、それらが実を結び60年からの4年の努力が東京での1勝、そしてさらに4年の積み重ねが68年メキシコ・オリンピックの銅メダル獲得となった。
 このクロニクルのこれまでの86回で見てきたとおり、それは明治期に日本にサッカーが伝わって以来の多くの先人たちの力の上に立ってのことだが、1921年(大正10年)大日本蹴球協会(日本サッカー協会)創設以来、協会中枢の人たちの努力の賜物でもあった。彼らは協会創設後10年で、国際試合の目標であった「中国(中華民国)に追い付く」ことを1930年(昭和5年)の極東大会で果たし、これを足場に、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに初出場し、「強国」スウェーデンに勝つという大仕事を成し遂げた。
 アメリカで生まれ、まったくサッカーとは異質のベースボールというスポーツが野球となって一足早く普及した日本の土壌のなかで、これらの国際舞台の成果が、まったく一握りのサッカー人によって作られたもので先進国の厚みには比べるべきものではないことも、また致し方なかった。
 その“一握り”は、メキシコ・オリンピックの銅メダルも同じことだった。
“東京”オリンピックの翌年、1965年(昭和40年)から企業チームの全国リーグもスタートした。神戸の少年サッカースクールに刺激されてアッという間に少年たちへの浸透が始まっていたが、メキシコで成果を挙げたのは、東京以来の“一握り”のプレーヤーが中心だった。
 そして、その中心のなかでも最も強力な一人、釜本邦茂が病のため戦列を離れると、日本代表は1969年(昭和44年)10月のメキシコ・ワールドカップ・アジア地区予選で、オーストラリアと韓国に屈してしまった。


70年ワールドカップの刺激

 こうして1969年は、ローマの敗戦から東京、メキシコと8年間、遮二無二走り続けた日本サッカーが、ワールドカップ予選の敗退という現実を見て、あらためて自分たちの実力を知る年となった。
 翌70年、前年の後期リーグ戦から復帰した釜本のコンディションも徐々に向上して、ヤンマーが元旦の天皇杯決勝で東洋工業を破り、西宮での高校選手権は永井良和のいる浦和南高が優勝して、高校三冠王となった。
 3月には大阪で万博が開催され、日本全体は好景気に沸く。また、よど号のハイジャック事件は、うやむやに片付けられた。
 サッカーにとっては5月31日から6月21日までのメキシコ・ワールドカップが大きな話題となった。
 日本協会が募集した40人のツアーや、5人の記者が取材に出かけて、自分たちの目で見た記事を書いた。
 FIFAの会議に出席する協会首脳だけでなく長沼健・技術指導委員長が視察したことは大きかった。
 前年のソウル・トーナメントのあと「オーストラリアの選手はセミプロだ」と語った彼は、技術面とともに常にサッカー発展の環境に意を注いできた。ワールドカップで、ブラジルがイタリアに快勝する試合や西ドイツとイングランドの激戦を見ながら、彼はそのチームを送り込んでくる“王国”の背景を考え、日本と思い比べていた。
 野津謙会長は、ワールドカップの素晴らしさを語るだけでなく、1986年大会を日本に誘致できないかと考えた。68年の成功のあと、69年に苦い失敗を経験。一気に盛り上がったサッカー熱と日本リーグの観客増員が、次の年に足踏みし、下り坂になるという悪い状態のなかで、協会会長も、技術委員長もひるむことなく、ワールドカップへの挑戦を計画していた。
 日本サッカーの転換期ともいうべきこの年。私には大きな悲しみがあった。3月に畏友・岩谷俊夫が44歳の若さでこの世を去ったのだった。


1969年(昭和44年)の出来事
◎7月 第1回FIFAコーチング・スクール開校(5日〜10月15日)
◇7月 米国、アポロ11号月面着陸
◎10月 メキシコ・ワールドカップ予選で日本代表敗退
◇10月 米国で1000万人以上の参加によるベトナム反戦デモ
◎11月 第5回日本代表サッカーリーグは三菱重工が初優勝(10勝4分け)
     東洋工は5連覇ならず2位(10勝1分け3敗)
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年10月17日号)

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