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メキシコの余韻さめて

転向の年に大きな悲しみ

 日本サッカーの転向点ともいえる昭和45年(1970年)に、私は大きな悲しみに出会った。
 3月1日、岩谷俊夫(いわたに・としお)が44歳7ヶ月の若さで去ったのだった。
 この連載にもたびたび登場したことのある彼は、私にとっても親友であり、兄・太郎にとっても日本代表チーム、大阪クラブでのインナーフォワード(いまの攻撃的MF)のパートナーだった。少年期から、ドリブルもパスもシュートも上手な出色のプレーヤーだっただけでなく、いつも相手を思いやる優しい心は、後輩はもちろん、年長者たちから愛され、信頼され続けてきた。
 大正14年(1924年)10月24日、神戸市灘区御影町生まれ、父・岩谷省三さんは教育者で、俊夫(愛称トッさん)が神戸一中在学中は、芦屋の精道小学校の校長をしていた。サッカーに親しんだのは、幼稚園のころから。昭和7年(1932年)に御影師範付属小学校に入ると、当然のようにボールを蹴り、6年生のときにはちょっとした“有名人”になっていた。
 神戸一中に入ったのが昭和13年。戦前の古い学校制度のころの中学校は5年制で、最上級生はいまの高校2年にあたる。その5年生のキャプテンは、御影師範付属小学校の先輩でもある友貞健太郎。4年生には賀川太郎、宮田孝治といった、のちの日本代表の顔があった。
 この年は夏の全国中学選手権(現・高校選手権)で朝鮮半島代表・崇神商業や東京の豊島師範などを破って優勝したのだが、その上級生たちが“今度の1年生にいいのがいる”と喜んだものだ。
 3年生からレギュラー、4年生(いまの高1)のときには神宮大会優勝、5年生(キャプテン)のときには新設の学徒体育振興大会と神宮大会の二つの全国大会に優勝した。昭和17年、すでに大戦争が始まっていて、いわゆる戦前戦中の最後の全国大会だった。


早大でのゲームメーク

 昭和18年、早稲田の高等学院に入る。昭和20年7月には軍隊に入ったが、病気で除隊となり、大戦の終結とともに復学し、21年、22年と関東大学リーグでの早大連続優勝に貢献。大学王座(東西学生1位対抗)にも勝った。
 自陣からボールを持ち出し、周囲の仲間を巧みに使って、自ら再びゴール前に現れてシュートを決める。大戦争のブランクによるレベル低下の学生界で、小学生のころから神戸一中を通じて培ったトッさんのボールテクニックとゲームメークとフィニッシュの才能は、際立っていた。
 大学を出ると実業団サッカーの雄・三共製薬に入社したが、その年(昭和23年)の秋に退社して、共同通信社に入る。記者稼業と日本代表の複合プレーは、昭和27年に毎日新聞社に移ってからも変わらず。昭和31年のメルボルン五輪予選まで続き、第一線の選手から退くとすぐ、日本協会の指導陣に入った。


記者、指導者として

 毎日新聞社(大阪)では、同社の事業であった全国高校サッカー選手権大会の取材だけでなく、事業部と提携して大会の発展に働いた。
 昭和37年、全国高校サッカー40年史を同社から出版したのは、まったく彼の独力。トッさんを頼りにしていた長老たちが、自分たちの努力の結晶ともいうべき高校選手権の歴史がまとまったことを、どれほど喜んだことか。
 昭和39年に行なわれた東京五輪の成功は、日本サッカーの総力を挙げての強化の賜物だったが、技術指導の面で絶えず若い指導者たちを温かく見守ったトッさんの陰の力もまた大きかった。
 かつてクラマーが「指導者として最適の人材の一人」と私に言ったが、彼はそのころから表面に立つことよりもバックアップに回るようになっていった。
 そしてその翌年、少年サッカーの指導で、トッさんは独自の面を開く。その著「サッカーの教え方、学び方」は多くのコーチに喜ばれた。しかし昭和43年に東京に転勤した後、翌年4月の検診で肺に異常が認められたため、入退院を繰り返していたのだった。
 悪化する2ヶ月前の全国高校選手権では、彼の息子・省吾とその仲間、浦和南高校が優勝したのを、病床で聞くことができたことを心から喜んだのだが…。


1970年(昭和45年)の出来事
◎1月 69年度の天皇杯決勝はヤンマーが東洋工業を2−1で下し2度目の優勝。
     第48回全国高校選手権は浦和南が優勝。夏の高校総体、秋の国体と合わせて3冠。
◎3月 岩谷俊夫死去
◇3月 大阪で日本万国博覧会開幕
     航空機「よど」号乗っ取り事件
◇5月 日本山岳会エベレスト登山隊が登頂
◎5月 第9回ワールドカップ・メキシコ大会、ブラジルが3度目の優勝
◎8月 ベンフィカ・リスボン(ポルトガル)が来日。66年ワールドカップ得点王のエウゼビオらが日本代表相手に3戦全勝
◎11月 日本リーグは東洋工業が5度目の優勝
◇11月 三島由紀夫が自殺
◎12月 第6回アジア大会で日本4位
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年10月24日号)

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