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世界の“常識”を求めて(2)

W杯積立が家の頭金に

 1971年(昭和46年)の冬、京都府乙訓郡(おとくにぐん)長岡町に居を移した。いまの長岡京市でJRは神足(こうたり)駅、阪急は長岡だった。大阪から北上して山崎を越え、京都盆地へ入ったところ西にも、文字通り長い岡とその向こうに低い山々があり、北西には愛宕山、北東には比叡山、その間には京都北山の峰々を見渡せる――というと、いかにも自分で景観を選んで引越しをしたようだが、実際は、京都に住む妹・清子の強い勧めからだった。
 40歳代も後半に入って、いっこうに結婚の気配も見せず、母親と同居の気楽さから、サッカーだ、新聞だと好き放題に暮らしている私に、こう言った。
「お母さんも70歳になる。体も決して強い方ではない。武庫之荘では、何か起こったときにも、遠くて不便だから、京都の近くで暮らしてほしい」
 母親の兄、佐藤正堯の養女となり、家業の建築業(屋根瓦専門)・大佛(だいぶつ)の経営にもかかわり、実業家でもある彼女は、言葉だけでなくさっさと適当なマンションを見つけてきたのだ。
 その価格の40パーセントが頭金で、あとはローン。本当なら蓄えがあるわけではないのに、前年にワールドカップ取材のために用意していた100万円を元手に、借り集めて購入の仕儀となった。
 とにかくこの目でワールドカップを見ようと、70年のメキシコ大会には取材申請を出して、アクレディティションももらって、資金も用意した。日本チームの出ていない大会出張を認められないのは当然としても、休暇を取ってから行こうとした。
 当時のT編集長の「運動部長の君がいなければ、新聞が作れないじゃないか」の一言で、幕引きとなったのだが、その取材資金が家に化けるとは――。


加藤ドクターと川本「名人」

 阪神間を離れると聞いて、一番不満顔だったのが、加藤正信ドクターだった。神戸FCを法人格にして、これからというときに、住居が遠くなれば、相談もすることができなくなるのでは――という。神戸FCの会議には、必ず顔を出しますから――ということで、納得してもらうことになった。
 夜中に紙面が出来上がるという仕事上、会社を出るのは午前1時ころ。長岡へ帰り着くのは2時前。70年代の10年間は、長岡へ向かっての深夜帰宅の毎日となり、神戸FCでドクターや大谷四郎さんたちと相談して、また社に戻り、それから一仕事して帰宅という日も、毎週のようにあった。
「川が近くなるから、ええやないか」と変な理由で転宅を喜んでくれたのは、川本泰三さん。「シュートの名人」はゴルフも上手だったが、川釣りは年季が入っていて、ハス(ハエ)には一家言持っていた。それがアマゴ(ヤマメ)、イワナにも手を出していき、山の好きな私を谷に誘いこんでいた。
 湖東の鈴鹿の谷や、伊吹山の近くにある川へ出かけるようになり、大阪から早朝の急行で米原や岐阜へという行程が多かった。そしてあるとき、デッキで新聞紙を広げて、その上でエサのブドウの虫やミミズを二人で分けていたときに、寝台車の車掌さんに見つかって、こんなところで――と苦情を言われたりもした。
 遊ぶことにかけてはマメな「名人」は、私の長岡転宅を機に、新幹線利用で米原へ――という手を考え出して、朝一番の「こだま」に、私は京都から乗り込むことになったのだった。
 ゴルフの打球も、若いころのシュートのように抑えの効いた、伸びのある球筋だった。そして釣りの構えも、ボールを持ったときやシュートのときと同様に、見た目に美しくバランスが取れていた。自宅の屋上で竿を振っては、針を小さな空き缶に落とす練習をしていた。
 スポーツの上手な人は、なんでも凝り性なのだと、感心したものだった。


ミュンヘン五輪での銃撃事件

 次の年、1972年のミュンヘン・オリンピック。日本サッカーは出場できなかったが、アラブのゲリラは選手村のイスラエルの宿舎を襲い、人質としたことから、銃撃戦となって、ゲリラにも選手にも死者が出る大事件があった。
 日本のメディアはすぐさま、「大会中止か」とと書き立てたが、IOCは慰霊祭を行なったのち、大会をやり直し、スポーツの独立性を見せた。同じ年に日本協会は天皇杯にすべてのチームの参加の道を開く大改革を行なった。
 世界も日本サッカーも、私も、新しい時代に入っていた。


(週刊サッカーマガジン2001年11月7日号)

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