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番外編 ラモス瑠偉のトーク。兵庫協会のフォーラム


スキーの神鍋とサッカー

 兵庫県協会の主催で2〜3ヶ月に1回の割合で「ワールドサッカー・フォーラム」があり、その第3回が兵庫県北部の日高町で行なわれた。
 スキーの神鍋(かんなべ)で知られているこの地は、スキー場に近い高原にグラウンドをたくさん作って、春、夏、秋はサッカーの大会や練習の適地となっている。
 神鍋ドームという、屋根付きのグラウンド、ピッチは土だが、サッカーも野球もできる施設もあり、雨天でも試合可能――。
 町では、2002年ワールドカップでのキャンプ候補地に名乗りを上げていて、積極的に働きかけているのだ。
 そういう町の熱意もあって、フォーラムを誘致して、ゲストにラモス瑠偉を招いたから、体育館を兼ねた町のホールは、午後7時30分開演前から、1000人の大盛況となっていた。
 私は第1回からコーディネーターと称して、ゲストのトーク相手の役割。ラモスが自分の思いを伝えようとする熱い気持ちが、子どもたちや父兄にも伝わっていき、あっという間の1時間半となった。


ラモスの“間”とゲームメーク

 ラモス瑠偉は、77年の来日以来、その気性の激しさから、サッカー関係者の中では、必ずしも良い評判ばかりではなかった。しかし私は、彼の直線的なドリブルのなかで見せる見事な間(ま)――いわゆるスペースで抜くだけでなく、タイミングの遅速で、ときに相手の鼻先を突っ切り、ときに相手の間合いに入っても、その力を減殺してすり抜ける面白さに、まず魅了された。そして、彼の成長とともに、その視野が広がり、ゲームメークがどんどん大きく、広く、しかも巧緻(こうち)になっていくことにも、驚きながら眺めていたものだ。
 セルジオ越後によると、彼はブラジルでディフェンスをもやっていたという。ボールを持っての巧みさとはまた別に、相手のボールを奪う技術や勘の良さ、特に相手チームの選手がパスを送り仕掛けてくる――味方の危険地域を察知する能力には、ヒザを叩く思いを何度もしたものだった。
 そのラモス瑠偉の、“語り”に付き合い、さらにフォーラムのあとに夜食を取りながら話ができたから、まことに10月23日は楽しいひとときを持った。
 彼の守備センス、勘についても語り、攻めも守りも万能であるということから、1960年代の偉大なプレーヤーであるディステファノに話が及んだときの、彼の目の輝きは、41歳の千軍万馬のそれでなく、19歳の若者のようだった。


日本にいて成長したラモス

 そうした彼のサッカーへの傾倒ぶりを見れば、あのドーハの悲劇、1993年10月28日、対イラク戦2−2の引き分けで、94年ワールドカップ米国大会への出場権を失ったショックの大きさは、どれほどだったろう。
「頭の中が白くなるというのを初めて経験したし、その後、何度も試合の夢、ときには自分のシュートで勝った夢などを見た」という行(くだり)を彼の口から聞いたフォーラムの会場の1000人は、サッカーのトップの試合の厳しさをあらためて知ることになったろう。
 沖縄のクラブへの肩入れ、フットサルへの情熱と、いまもサッカーをプレーし続ける彼だが、フォーラムで少年たちにまず、ボールをトラップすること、いいパスをすること、シュートをすることの基礎をじゅうぶん身に付けてほしい――と言っていた。
 20歳で日本にやってきて、努力し、日本で選手になり、帰化して日本代表となったラモスだが、“王国”での評価がどうであったかは知らない。しかし、私は95年のブラジルと日本代表との試合のときに、セレソンが全力を挙げて彼をマークし、日本の起点をつぶしにかかろうとしたことが、セレソンたちの彼に対する最大の評価であり、敬意だったと思っている。
 ブラジルに帰らなくても、ヨーロッパへ行かなくても、日本にいて、Jリーグのプレーのなかで、常に目標を高く持っていた彼が、ブラジル代表から、全力を挙げてつぶしにかからなければならない相手と見られるまでになった。欧州・南米のトップレベルに達するためには、欧州、南米のトップレベルのリーグで試合をしなければならない――と思い込んでいる指導者や選手たちに、そうでない例もあることを知っていてほしい――。
 彼と語りながら、どんな環境でも努力によって道を切り開いた先人たちを忘れないでほしい、と思うのだった。


(週刊サッカーマガジン2001年11月14日号)

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