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vol.2 イタリア(中)


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 世界の国々の風土や歴史、そして“ひと”とサッカーの関わりを眺めてみたい。そんな考えでスタートした「フットボール・アラウンド・ザ・ワールド」です。今回は、先月号に続いて、1990年のワールドカップ開催地のイタリアです。  あの地中海につき出た長靴の形をしたこの国は別掲の「イタリア・日本 Q&A」にあるとおり、日本よりも国土が狭く、人口も半分くらいなのに、サッカー界では、まさに大国なのです。
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チーム全員の飛行機事故

 去る12月8日、ペルーのサッカー・クラブ、アリアンサの選手16人と役員4人が、飛行機事故で全員死亡とのニュースを聞いた。
 その5日後の12月13日、東京・国立競技場でのトヨタカップの試合、FCポルト対ぺニャロールの前に1分間の黙とうをし、アリアンサのサッカー人達の冥福を祈った。彼らと対戦してきた同じ南米のぺニャロールの選手達が黙とうするのを見ながら、私は家族の受ける打撃の大きさと共に、アリアンサ・クラブの失ったものの大きさ、さらにはペルー・サッカー選手界の痛手を思った。
 飛行機事故といえば、私はきまって頭に浮かぶ風景がある。巨大なお寺と、その横を通して下ってゆく、細い道、十字架と墓碑、そして木もれ日に、供えてあった花の赤さが際立っていたことだ。


スペルガの丘のバシリカ

 それはイタリアの西北部、ピエモンテ地方の中心地、トリノ市のすぐそば、スペルガの丘。1949年5月4日にトリノFCのレギュラー18人と役員6人を乗せた飛行機が丘の上のバシリカ(寺院)の基部の壁にぶつかり、乗客、乗員31人のすべてが遭難死した現場。後に作られた記念碑だった。
 訪れたのは、1980年6月17日、イタリアで開かれたヨーロッパ選手権決勝大会の取材に出かけたとき。そこで、わたしは、墓碑の前が清掃され花が供えられ、おじいさんが、孫らしい2人の坊やに、一人ひとりの名前を読み、説明するのを聞いた。その情景と、お参りの人は絶えませんよ――の言葉に、30余年のトリノFCの悲劇が市民の心にまだ残っているのを知った。

 碑には遭難者31人の名が刻まれていた。プレーヤーたちの名は上方にあり、サンドロ・マッツォーラ(インテル・ミラノの名選手)の父親であったバレンチノ・マッツォーラは右の一番上にあった。墓碑には「イタリア・スポーツの栄光であったチャンピオンたちの不滅の記録のために」「ラ ソシオツィオーネ カルチョ トリノ」の文字と「1949 Magio(マッジョ=5月)4」の年月日が書かれていた。


攻撃的なチャンピオン トリノFC

 彼らは確かにチャンピオンだった。第2次大戦が終わり、荒廃の中から人々が立ち上がる時、イタリア人の楽しみとなり、元気づけとなったのはサッカーだった。リーグが復活した1946年から48年まで、トリノFCは3年連続優勝し、48−49年シーズンも、あと4週間をのこすところで勝点4をリードしていた。
 強敵のインテル・ミラノとは、その前の週に試合し0−0で引き分け、4年連続優勝を、トリノ市民は信じていた。バレンチノ・マッツォーラとユツィオ・ロイクの両インサイド、それにCFのガベットを加えたセンター・スリーが傑出し、彼らを軸とする攻撃力は、前年リーグの40試合で、125点を記録していた。

 その攻撃的なサッカーの評価は、イタリアだけでなくヨーロッパ各地でも高かった。遭難のもととなったリスボン(ポルトガル)へのフライトも、5月3日に行なわれたポルトガルの名選手フランシスコ・フェレイラの引退試合のためのものだった。18人のプレーヤーの中には10人のイタリア代表と、フランス代表、チェコスロバキア代表が1人ずついた。
 このチームの10人を主力とするイタリア代表チームは、大戦直後からの国際試合を10戦7勝1分け2敗の好成績で、1950年にブラジルで開かれるワールドカップでも、注目されるはずだった。その18人と、役員とが一瞬にして失われたのだった。

 V・マッツォーラは、ケガでリスボン行きは止めにしていたのに、ポルトガルの仲間への友情から参加し、試合も半分だけプレーしたのだった。FBで、やはりケガをしていたマルソは試合に出なくても、顔を見せるだけでもと、旅行に加わった。3番目の控えGKディノ・バラリンは、いつもの控えGKに代わって参加し、兄のアルド・バラリン(右FB)とともに遭難した。


残り試合はユース同士

 葬儀はイタリア協会葬となり、多くの人が長い葬列をつくった。チリ・サッカー協会の要請でFIFA(国際サッカー連盟)は5月4日を「トリノFCメモリアル・デー」とすることを決めたという。
 レギュラーと控え、18人の一軍メンバーを失ったトリノは、イタリア協会から、シーズンの残り試合をユース・チームで戦うことを許されたが、対戦相手も、また、全て、ユースチームを出場させた。トリノはこうして4試合に勝ち、4年連続優勝が記録されたのだった。

 1949年、昭和24年の日本のサッカーは、まだ国際復帰もしていなかった。海外からの情報も少なく、この大事故も詳しくは知らなかった。が、たしか大阪のアメリカ図書館の『ライフ』だったかのグラフで、遭難と葬儀の模様を見た。トリノ市民、いやイタリア全土の哀悼に、私は、サッカーのプレーヤー、プロフェショナルとサポーター、市民の結びつきの深さを知った。

 18世紀にサルディニア王、アマデウス2世が建立したスペルガのバシリカは、そのバシリカ様式の建築(もともとバシリカというのは建築スタイルの名)と、付近からの展望のよさで知られていて、山麓からケーブルがついている。観光客のための売店もあり(私が登った時間は昼頃で閉めていた)土産品に混じって選手全員の顔写真の入った絵葉書やトリノFCのペナントなどを売っているという。やはりヨーロッパ選手権の時に、この地を訪れた英国人の記者の感想も、私と同じだったらしい。彼が書いた雑誌の記事にも「スペルガの遭難を、いまだに、トリノ市民は忘れていない」とあった。


“思いやり”と“カテナチオ”

 この悲劇から、私はイタリア・サッカーについての2つのヒントを得た。
 1つは、イタリアの人達は、人の悲しみを自分の悲しみとする同情心の厚いこと。その同情心は、1軍の全滅した相手クラブと対戦するのに、自分たちもまたユースチームを出場させた思いやりと公平さであり、また、試合中に仲間をいたわり、励ますチームワークということになろうか。

 かつて代表チーム監督のエンツォ・ベアルツォットはこう言った。
「われわれは、イタリアン・マインドを持っています。イタリアン・マインドというのは他の人に対する思いやりです。82年ワールドカップ決勝で、西ドイツと対戦したとき、前半のPKチャンスにカプリーニが失敗しました。しかし、その時、誰も彼を責めず、その代わりに点を取ろうと励ましたのです。私は、この時、必ず勝利を握ることができると思ったのです。」と。

 もう1つは、技術、戦術のこと。トリノの悲劇は、リーグのトップチームと代表チーム・レギュラーを失ったということで、計り知れない影響をイタリア・サッカーに与えた。このあと、イタリアが外国から高額で選手を移籍するのはトリノの穴をうめるためだったろう。それはまた代表チームを含めて、技術の低下につながりそこから、各クラブも、代表チームも、守り重点の戦術の採用となり、イタリアにカテナチオ時代を到来させ、ひいてはヨーロッパに、世界に、守りのサッカーを広めたのかも知れない。


FIFAのバラッシ副会長

 トリノの悲劇の頃、イタリア・バラッシ氏(1898〜1971年)も忘れることのできない人だ。
 1964年の東京オリンピックの時、FIFAの副会長で、オリンピック競技を担当していたバラッシュさんは、何度か来日していた。1913年、15歳頃からマイナー・リーグでプレーをし、のちにレフェリーにあり、イタリアの審判協会会長、ナショナルリーグの会長などを勤め、1933年からイタリアFAの事務局長をつとめ、1946年、大戦後のイタリア・サッカー再建のため、協会の会長に就任した。任期は1958年まで12年にわたり、この間、プロフェショナル、セミ・プロフェショナル、アマチュアの3つの区分にプレーヤーを分けて、それぞれのりーグを行なうことや、レフェリーの充実、少年育成などに力を尽くした。FIFAの仕事も、1934年のワールドカップ開催の時の、組織委員会に入って以来、1970年まで、FIFAの各部門にわたって働いた。

 私が、バラッシ氏に会ったのは東京オリンピックの前年、私たちの計画した大阪トーナメント(東京オリンピックの準々決勝の敗者4チームによる、5/6位決定戦)の準備のため、サー・スタンレー・ラウスFIFA会長(故人)やソ連のV・グラナトキン副会長らとともに来阪したときだった。レセプション・パーティーでも、物静かな紳士という印象のバラッシさんは、実はワールドカップの象徴、ジュール・リメ杯を大戦中に守り通した“勇気の人”でもあった。


消えた純金のジュール・リメ杯

 1934年と1938年の2度のジュール・リメ杯世界選手権(いまのワールドカップ)に優勝したイタリアは、大会の提唱者であるジュール・リメ氏(FIFA第3代会長)の名を冠した純金のカップを保有し、ローマのイタリア協会のオフィスに置かれていた。
 大戦が末期に近づいた頃、イタリア政府もドイツ政府も、戦争遂行のため民間の貴金属を供出させることにした。そして、イタリア協会の事務所へも係官がカップをはじめとする貴金属の収集のためにやってきたが、純金、重さ4キロのジュール・リメ杯は事務所になく、誰も行方を知らなかった。バラッシさんが、自分の家へ密かに持ち帰り、ガラクタを入れた箱などと一緒に、紙のクツ箱の中にカップを隠しておいたのだった。

 日本でも、戦争物資調達のため、金製品や銀製品、あるいはダイヤモンドなどを政府が買い上げ、あるいは供出させたことがあるが、そうした戦時中の厳しい法令や、軍や政府の意向に逆らうことがどれほどの勇気のいることか……。
 バラッシさんのおかげで、ジュール・リメ杯は、1950年のワールドカップ・ブラジル大会から、再び晴れ舞台に登場し、1970年、ブラジルが3度目の優勝を遂げたことで、ブラジルが永久保時国となった。
 のちにブラジル・サッカー連盟が、このトロフィーを盗まれる不思議な事件もあったが、ともかくオリンピックとは別に、世界のナンバーワンを決める大競技会を持つ、唯一のスポーツ団体であったサッカーにとって、象徴ともいえるトロフィーが、大戦の戦火をくぐり抜けて無事だったことは特筆すべきことだろう。
 1971年11月24日に74歳で亡くなったバラッシさんを思うとき、あの穏やかな顔と、金のトロフィー、そして、イタリア・サッカーの外柔内剛との関連を思うのだ。


◆イタリア・日本 Q&A

Q:イタリアの国土は日本より大きい?

 日本の約80パーセント。地中海へ突き出た半島部と、地中海で一番大きな島シチリアと第2の島サルディニアをあわせて総面積約30万平方キロ(日本は約37万8,000平方キロ)


Q:人口は日本より多い?

 イタリアの人口は約5,700万人。日本は約1億2,000万人。日本の方が多い。


Q:4年前のロサンゼルス・オリンピックのメダルが多いのは?

 メダルの数はどちらも32。イタリアは金が14、銀が6、銅が12。日本は金が10、銀が8、銅が14(メダル合計数なら、どちらも7位)。


Q:サッカーのワールドカップにおけるイタリアの優勝回数は?

 1924年、38年、82年と合計3回優勝。1970年2位(日本はワールドカップ本大会へは一度も出場していない)。


Q:オリンピック・サッカーでの優勝は?

 イタリアのオリンピック優勝は1回(1936年ベルリン大会)。1960年ローマ大会の3位決定戦ではデンマークに敗れ(4位)また、84年ロサンゼルスでも3位決定戦でユーゴスラビアに負けて4位だった。
 日本の優勝はなし。1968年メキシコ大会で銅メダル。


(サッカーダイジェスト 1988年6月号)

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