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世界の“常識”を求めて(3)

ペレを見たか――

 1972年の日本サッカーにとっての大事件は、ブラジルからペレとFCサントスがやって来て、5月26日に国立競技場で日本代表と試合をしたことだった。
 1940年10月21日生まれの彼は、このとき31歳、前年の1971年7月18日にブラジル代表からは引退していたが、サントスとの契約はまだ残っていた。
 1970年ワールドカップ・メキシコ大会でブラジルが3度目の優勝を遂げて、ジュール・リメ杯を永久保持することになったが、この大会でのペレの素晴らしい働きは、日本から取材に出かけた記者たちのリポートやテレビ報道などで、日本にも伝わっていた。
 そう、70年大会の一次リーグでの対イングランド戦で、トスタンのエリア左外からのクロスをペレが受けて、ジャイルジーニョにシュートをさせ、彼の強シュートが唯一のゴールとなってブラジルが勝った。
 その場面をテレビのニュースで見た私の兄・太郎が、電話をかけてきた。
「ペレのトラップを見たか、落下するボールを受けたときの完璧なコントロールと余裕のある彼に対して、イングランドのバックはつぶしに行くことができなかった。あのトラップが、ジャイルジーニョのシュートにつながった。やっぱりペレはすごい――」
 いささか興奮気味だったのをいまでも覚えている。
 そのペレの試合を計画したのは、大阪の毎日放送。同社の加茂豊(関学大OB、加茂周コーチの兄)たちの企画が成功したのだった。


神技のゴール

 国立競技場でのナイターで、満員の観衆の期待に応えて、ペレは後半に2ゴールを挙げた(サントス3−0日本)。
 その1点目は、マークの山口を背にして、後方からのパスを受け、小さく浮かせて胸でトラップして押し出しながら反転した。ペレをはさもうとする川上と山口との間をすり抜け、左手を広げて山口を押さえつつ、バウンドしたボールを右足で叩いたボレーシュート――。
 その姿は、いまもスチールで1枚、引き伸ばして我が家にあるが、ボールを右足でとらえるときの姿勢の美しさは、何度見ても飽きることはない。
 2点目は、もっと複雑ですごかった。(1)まず高いボールを山口と競って自分がとり、右足で浮かせて山口を左へかわし(2)次に待ち受けている小城に対して、再びボールを浮かせて頭上を抜き(3)反転する小城が足を出すより早く、頭でボールを突いて出て、小城を抜き切り(4)左足ボレーで叩いてニアポストへずばりと決めた。
 試合中に仲間を使い、パスを出し、またパスを受け、チーム全体の流れを作っていくペレのゲームメークには、まことに感嘆した。しかし、この2得点にも象徴されるとおり、彼の本領はストライカー、しかもだれも真似ることのできない、高さにあることを知った。
 彼の“神技”は、子どもたちにも通じたのだろうか――試合のあと、ペレたちを乗せたバスを追う大群が涙を浮かべ、「ペレ、ペレ」と叫んでいた。
 翌日、東京の編集局へ顔を出すと、販売部長が「今朝のサンケイスポーツは、駅売りで売切れてしまいました」と言ってきた。サッカーでスポーツ紙が売れたのが驚きだったらしい。


博覧強記の田辺五兵衛さん

 この年の10月16日、田辺五兵衛さんが逝った。1908年(明治41年)生まれの64歳。薬業界の名門・田辺製薬の会長であり、日本サッカーの昭和初期の興隆期からベルリンの栄光、戦後の復興にかかわってきた大先達だった。
 日本協会の機関紙に24号から98号まで掲載された随筆「烏球亭(うきゅうてい)雑記」は、その博覧強記ぶりの一端をうかがわせるものだ。盛大な社葬が営まれたのは、当然のことながら、関西サッカー協会では協会を挙げて「田辺さんを偲ぶ会」を49日に行なった。
 同協会の役員であった私が進行役を務め、協会関係者や多くの有名選手、母校の桃山中学や大阪商大の仲間や後輩も集まった。
 それら古い人たちの思い出を聞きながら、あらためてサッカーの知識の泉を失った大きさを思った。もっとたくさん聞いておくべきであったのに――。


1972年(昭和47年)の出来事
◎1月 第51回天皇杯元旦決勝は三菱がヤンマーを3−1で破り初優勝
◇2月 札幌冬季五輪で日本が70メートルジャンプでメダル独占
     浅間山荘事件
◇3月 高松塚古墳で壁画発見
◇5月 沖縄返還、沖縄県スタート
◎5月 ペレがFCサントスとともに来日
◇6月 ウォーターゲート事件
◎7月 第16回ムルデカ大会(マレーシア)で日本は3位
◇9月 第20回ミュンヘン五輪でアラブ・ゲリラが選手村に侵入。イスラエル選手を人質に。銃撃戦で11選手と犯人死亡
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年11月21日号)

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