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世界の“常識”を求めて(5)

杉山隆一の引退試合

 1974年(昭和49年)の元旦は、天皇杯決勝を制した三菱イレブンに担がれ、3万の観衆に手を振って引退を告げる杉山隆一のテレビ画面で幕を開けた。1959年の第1回アジアユースで日の丸をつけた17歳のときから、彼を見続けてきた私には、その卓越したテクニックとスピードゆえに、相手に狙われ、手ひどいタックルで何度か大きなケガをしながら、プレーを続けたことは、感嘆のほかない。しかも、メキシコ・オリンピックの釜本への、あの見事なパスによる銅メダルの後も、そのプレーに磨きをかけ、上達を心がけたのだから。
 この天皇杯の準決勝、対ヤンマー戦で彼が右インサイドを第2列から走り抜け、ジョージ小林を置き去りにして奪ったゴールは、私にとっても彼のサッカーの新しい発見でもあった。
 国立での決勝でも、彼は足利や細谷へパスを送りゴールをお膳立てした。テレビ画面のリュウ坊に拍手をしながら、彼がそのスピード(急)を生かすためにつかんだ“緩”を、このチームの後輩たちは果たして引き継ぐことができるのだろうか、とも思った。
 高校サッカーは長居へ移って3年目の決勝――地元大阪の北陽高校が初出場、初優勝だった。双子の山野兄弟が活躍し、2年続けて準決勝に終わった藤枝東にはドリブルの上手な中村一義がいた。
 東京オリンピックの翌年に神戸でスタートして、全国に広まった少年サッカーもすでに15年以上を経て、高校の選手たちのボールテクニックは少しずつ良くなっていた。少年期からボールを扱うことで、大型プレーヤーで上手な者も出始めた。ただし、日本代表は再び、アジアを抜け出せないところに戻っていた。


西ドイツ・ワールドカップへ

 この6月、私は西ドイツでのワールドカップの取材に出かける。サンケイスポーツの編集局長で、大阪代表を兼ねる長尾幸太郎は、社会部出身の事件記者で、自分も北野中学(現・北野高校)のときには野球の選手だった。
 スポーツと勝負ごとは大好き、スポーツ紙に掲載される記事は“つり”以外はすべて興味がある――まことにスポーツ紙のトップとしてうってつけの人。
「紙面のほとんどに興味がある。ただし、スポーツ取材の現場は踏んだことはないから、仕事の采配はすべて君に任せる」と言い、紙面づくりの過程に口をはさまないが、出来上がったものには、正確な批評をしてくれた。
 こういういい上役に恵まれての二人三脚が始まったときだったが、今度はどうしても自分の目でワールドカップを見たいと訴えた。


自責で出張し会社に収入

 私から出した案は「日本チームの出ない試合ではあるが、ワールドカップには多くの人が関心を持つ。これを紙面で伝えれば、反響を呼ぶはず。そして私が記事を書くことで、大会をバックアップする用具メーカー、アディダスと日本での提携会社のデサントが、記事下広告を大会期間中に出稿する」というもの。
「出張の経費は航空運賃、宿泊費すべて賀川の負担。ただし、万一のことがあった場合のことを考えて、期間中は出張扱い」(労災保険が適用される)
 労災うんぬんは72年のオリンピックでアラブ・ゲリラの事件があり、またしばらく日本赤軍のハイジャック事件も続いていたことも考慮に入れてのことだった。
 こんな、いささか変則的な形で1ヶ月の長期にわたって編集局次長が持ち場を離れるのだから、本来なら、そう簡単にはいかないのだが、長尾局長は、(1)他紙にない独自の記事が載ること(2)広告収入があることを理由に、お偉方に根回しをし、了解を取り付けてOKを出してくれた。
 サンケイスポーツが独立体制になり、組織の長は責任を負う代わり権限を持つようになったのも、私には幸いだった。
 6月6日18時15分、LH(ルフトハンザ)651便は、大阪(伊丹)空港を飛び立ち、東京(羽田)を経て、北極回りでフランクフルトに向かった。


1974年(昭和49年)の出来事
◎1月 天皇杯決勝で三菱が日立を2−1で破って優勝。杉山の引退に花を添えた。
     長居へ移って3年目の第52回全国高校選手権は、北陽が優勝。藤枝東は2年続けて準優勝。
◇3月 フィリピンのルバング島の残存日本軍、小野田寛朗少尉が救出される
◎6月 ワールドカップ西ドイツ大会で西ドイツが優勝
◇8月 ニクソン米国大統領がウォーターゲート事件で辞任
◎9月 テヘランでアジア大会。日本は1次リーグで1勝1分け1敗で敗退
◇10月 プロ野球、巨人の長嶋茂雄が引退
◇12月 10周年の日本サッカーリーグでヤンマーが3年ぶり2度目の優勝
     佐藤栄作元首相、ノーベル平和賞受賞
※ ◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2001年12月12日号)

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