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世界の“常識”を求めて(6)

困った表記

 1次リーグの組合せが決まって、いよいよワールドカップ本番も近いという実感が強くなってきた。
 4年前のフランス大会の組合せのときから、当時の岡田武史監督たちが“予選リーグ”を“1次リーグ”という呼称にしてくれて以来、活字メディアは本大会の第1ステージのリーグ戦を予選と記すところはほとんどなくなったが、テレビではまたまた予選リーグが横行し始めた。第2ステージ(日本では第2ラウンドというのが普通らしい)の16チームによるノックアウトシステムの方を、相変わらず決勝トーナメントといっている誤りは、日本協会の出版物がそもそも誤記を通しているのだから、この分では、日本が1次リーグを突破すると決勝トーナメント進出、あるいは決勝T(トーナメントの略らしい)へ――などという大見出しが踊るのかと思うと、いささか気分が悪くなる――日本協会の方へも一度申し入れをしておいたのだが、こちらの力不足で一向に改善されない。
 スポーツ最大のワールドカップを開催する日本のサッカー界は、この国の中で、最も国際的なはずだから、ほかの多くの競技団体もそれぞれの大会で1次リーグの後のノックアウト戦を「トーナメント」と言っているのも無理はない。まことに困ったものだ(チケット表記に決勝トーナメント1回戦とは書いていないので、入場券入手の際はご注意を)。


74年西ドイツ大会

 さて、連載に戻る。前号は番外編(トヨタカップ)で、前々号が74年ワールドカップへ私が出発するところまでであった。
 この大会は、6月13日のブラジル(前回優勝)とユーゴスラビアの開幕試合に始まり、参加16チームを4組に分けた1次リーグ合計24試合を経て、各組の上位2チームずつのベスト8が、これまた4チームずつの2組に分かれて2次リーグ(6月26日〜7月3日)を戦い、各組の2位による3位決定が7月6日。1位による決勝が7月7日に行なわれた。
 会場はフランクフルト、ドルトムント、ゲルゼンキルヘン、ハノーバー、デュッセルドルフ、シュツットガルト、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルクの9会場。私は、ハノーバー以外の8会場を回り、3位決定、決勝を含む13試合を生で見た。
 82年スペイン大会から24に、さらに98年フランス大会から32にチームが増えた。だが、当時は16チーム参加だったから、試合は中3日の間隔があって、現在の取材と比べると、ゆったりとした日程だった。ただし、いまの電子メールはもちろんFAXもない(FAXは82年から)ころだから、記事の原稿はプレスセンターからの電信か電話かによる。タイプライターは持っていったが、ローマ字で送っても、結局日本語にする時間がかかるので、速記者に電話で吹き込むことにした。泊まり勤務の速記さんに朝8時に起きてもらい、こちらは現地の深夜に送った。始めてみると、選手の名前や会場がすべてカタカナだから、その説明に思わぬ時間を食った。それでも学生時代から好きだったドイツ(当時は西ドイツ)の各地を飛び回ってサッカー、しかもワールドカップを見るのだから、まことに幸いな1ヶ月だった。


アディダスの衝撃

 大会の始まる6日前にフランクフルトに着いた私は、その日のうちにニュルンベルクへ飛び、その郊外ヘアツォーゲンアウラッハにあるアディダス本社を訪ねた。
 大会のスポンサーでもあり、大会の影の情報に通じている巨大なスポーツ用具メーカーの担当者に会って話を聞き、あわせて、その設備と物づくりの実態に触れたいと思っていた。幸い、同社からの輸入を手がけている商社に神戸大学のサッカー部の先輩がいたことから便宜を図ってもらい、社の駐在員のドイツ人が付き合ってくれた。
 第2次大戦の敗戦から奇跡の復興をした日本と西ドイツの両国だったが、スポーツ用具へのこの会社の取り組みには、ただ脱帽するだけ。ハンドメイクと機械の組合せの工程の見事さ。選手たち用に作られたスポーツホテル。そしてスポーツシューズ博物館と称する一室に展示された製品の数々。ベルリン・オリンピックの陸上のスプリント王者ジェシー・オーエンス(米国)のスパイクや、1954年に無敵のハンガリーを破った西ドイツ代表のフリッツ・バルターの使ったサッカー・シューズなどを見ながら自らの歴史に誇りを持つ彼らと、大戦争に負けて、すべて古いものを捨て去ろうとしていた日本とを思い比べたものだ。
 長途の旅の後、フランクフルト・ニュルンベルクの往復取材、ハードスケジュールではあったが、まだ49歳の私の身体は若かったらしい。


(週刊サッカーマガジン2001年12月26日号)

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