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世界の“常識”を求めて(7)

ワールドカップの旅の初め

 74年ワールドカップは、日本サッカーにも、私自身にも大きな刺激になった。
 70年のメキシコ大会で録画放映したテレビ東京が、この大会の決勝を生で放送した。オリンピック以外で、しかも日本が出場していないサッカーを――ということでテレビ放送では画期的なことだった。ただし、当時、東京12チャンネルという名のここの放送では全国をカバーできないため、生放送を見られない多くのサッカーファンからNHKに抗議(なぜ、NHKが放送しない)が寄せられた。これがきっかけになったのかどうか、次のアルゼンチン大会からはNHKが放送することになる。
 私のほうは、現地からサンケイスポーツに、その日その日の試合とそれにからむ話題を「Oh! ワールドカップ」というタイトルで送り、掲載した。大阪サンスポでは長尾幸太郎編集局長の英断で「3面」という目立つページをあてたから、結構反響があったらしい。
 サッカー・マガジンは大会の別冊特集号で詳細を伝え、さらに「図で見る、これがWM74の97ゴールだ」(岡野俊一郎解説)をも発行した。
 私の「ワールドカップの旅」の連載は74年9月号からスタート。初めは旅日記風にと考えたが、当時は月刊誌でもあり、連載の回が進むといかにも遅れた感じになると順不同、アットランダムに書くことにした。
 以来、ワールドカップの度に書かせてもらう楽しみで、4半世紀を超えたことになる。


釜本、第2の盛期

 ワールドカップの影響は釜本邦茂とヤンマーにも表れた。10月からの日本リーグ後期9試合で、彼は11得点を挙げ、前期と合わせて21得点(18試合)で4度目のリーグ得点王となるとともにチームも2度目の優勝を果たした。
 日本代表チームが夏の欧州遠征のときに大会を観戦し、クライフの緩急の落差の大きいプレー、ゲルト・ミュラーのゴールなどを生で見たことが釜本の“負けず嫌い”を引き出したらしい。
 この年の10月20日の対三菱戦(国立)で、彼はリーグ戦での通算99、100得点を記録(チームも3−1で勝ち)したが、100ゴール目は吉村からのロブを追ってディフェンダーのカバーより一瞬早く左足で蹴ったもの。足の先端に引っかかったようなキックで、「あまりスカッとしたシュートじゃない」と言っていたが、豪快な一発でなくても、ゴールを重ねるところに彼の並々ならぬ意欲が現れていた。
 ヤンマーは75年元旦の決勝で永大産業に勝って二冠となる。ジャイール、ジャイロの二人のブラジル人選手を加えて、力をつけた新興・永大との1−1からの決勝ゴールも釜本だった。


ヤンマーの連覇とミュラーの反転

 メキシコ組がピッチから去っていくなかで、30歳の釜本は第2の盛期に入っていた。ヤンマーは75年シーズンにも三菱と競り合い、12月14日の最終節の国立競技場での対決に4−1で勝って連続優勝した。
 3万5000人の観衆の前でのゲームは、まず三菱が落合の見事なボレーシュートで先制した。しかしヤンマーは、吉村、小林のブラジル育ちの中盤と右の今村、左の堀井のサイド攻撃、第2列からの阿部の飛び出しとヘディングが釜本を軸に回転し始め、コーナーキックから同点ゴール。釜本のドリブルから生まれたPKで勝ち越し、さらに吉村のFKで3−1として、釜本が得意の右45度からのシュートで4点目を加えて試合を決定付けた。
 75年の1月にはバイエルン・ミュンヘンが来日した。ワールドカップの西ドイツ代表に7人を送り込んだブンデスリーガの常勝軍団も、ワールドカップでの疲れなのか、74−75シーズンは故障者が続出し、チームは下位に低迷していた。
 看板のベッケンバウアーとゲルト・ミュラー、GKのマイヤーとディフェンダーのシュワルツェンベックらはプレーはしたが、大会のときの精彩を欠いていた。2試合とも0−1で日本が敗れたシリーズで、私には19歳のK.H.ルムメニゲの初見参と“よれよれ”だったおかげでゲルト・ミュラーの反転シュートをじっくり見られたのが何よりだった。
 75年からサンケイスポーツは独立した会社になり、私は大阪の編集局長に。読者に喜ばれる新聞をつくり、発行部数を増大することが、第一の仕事となった。


1975年(昭和50年)の出来事
◎1月 元旦の天皇杯決勝でヤンマーが永大産業を破って3度目の優勝。74年、日本リーグと合わせて2冠達成。
     大阪・長居での第53回高校選手権は東日本勢がベスト4を独占。東京の帝京高が初優勝(3〜8日)
     西ドイツからバイエルン・ミュンヘン来日。日本代表を相手に2戦2勝。
◇3月 山陽新幹線が博多まで延長開業
◇4月 南ベトナム政府が降伏。ベトナム戦争終結
◇7月 ウインブルドン・テニス女子ダブルスで沢松和子が、アン清村と組んで日本人として初優勝
◇8月 日本赤軍のクアラルンプール事件
◎12月 10周年を迎えた日本サッカーリーグはヤンマーが2年連続優勝(前期4月6日〜6月2日、後期10月18日〜12月14日)
◇12月 赤字国債を発行するための財政特別法が成立(これ以降、赤字国債が恒常化する)
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年1月2日号)

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