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世界の“常識”を求めて(9)

フォーラムと出版発表

 師走に二つの催しにかかわった。一つは兵庫県サッカー協会主催の「第4回ワールドサッカーフォーラム(14日・神戸市)」、もう一つは、「サッカー日本代表 世界への挑戦」出版発表(21日・東京)。
 前者は本誌の伊藤武彦編集長とフリーランスの増島みどりさんと私のトーク。ワールドカップの組合せ決定の後でもあり、大会の予選を中心に二人のプロのジャーナリストによる現場を踏まえての話は、神戸のサッカー人にも大いに喜ばれたようだ。
 出版発表会は、日本協会の岡野俊一郎会長、森健兒専務理事から花や祝電を頂戴し、長沼健名誉会長は忙しいなかに駆けつけて、スピーチをしてくださった。まことに大恐縮――。
 オリンピックとワールドカップでの日本代表の戦いを“世界への挑戦”という視点でとらえ、その経緯と、フォトに当事者の話を加えたこの本は、日本サッカー界の流れの一つの面を知っていただくにはまずまずのものと、執筆者代表としてお勧めしたい。


古河電工の急上昇

 さて、マイ・フットボール・クロニクルに戻ろう。今回は前号に続いて1977年。
 高校選手権の首都圏移転後の最初の第55回大会は、31チームが西が丘、駒沢、大宮、国立の各会場で激しいゲームを展開して、連日の晴天もあって、会場は大にぎわい。浦和南と静岡学園の決勝の好試合に国立が沸き立った。私の知人のなかには、日本リーグより高校サッカーの方が面白いという人もあったほど。
 天皇杯元旦決勝を制した古河電工が、この年2月に終わった76年度の日本リーグ(第12回)にも優勝し、二冠となった(前号参照)。メキシコ五輪の銅メダル・メンバーのリベロであった鎌田光夫監督の下で練習をしっかりと行なったのが良かったのだが、永井、川本、木口、奥寺といった1952年生まれが、充実期に入って力をつけたことが大きい。なかでも、ブラジルの短期留学から帰国した奥寺の動きの早さは驚くほどだった。
 左足でボールを叩く力が強く、“シュートに確実性を増せば…”とコーチたちから言われていたのが、このステップアップを足場に、ハイスピードからくる余裕でコントロールシュート(キック)を身に付けてくれれば、代表チームにとって有力な武器になるとだれもが思っていたものだった。


釜本が代表引退

 来る者あれば、去る者もある。1964年以来、日本代表チームのセンターフォワードであった釜本邦茂が、この年の6月の日韓定期戦を最後に代表を去った。
 一番の理由は、彼自身が国際舞台での試合で、思うようにやれなくなった――ということ。私には1944年4月15日生まれ、33歳の彼に24〜25歳の選手のように、前線からの守備をしっかりやれ――というような“全員防御、全員攻撃”を押し付けるところに無理があったように見えた。だれが見ても、ゴールを奪う力はまだまだ日本のレベル以上(日本リーグでも、76年度の得点王=6度目)のストライカーを代表から手放す手はないのだが…。
 この年の秋、奥寺康彦が1FCケルンと契約し、西ドイツへ移ってしまう。奥寺にとっては、働き盛りの25歳。チャンスには違いないが、スター候補を失った日本代表も、古河電工も、ようやく上昇し始めた勢いが、再びしぼんでしまうのは目に見えていた。


新たな体験

 こうしたなかで、私にも新しい経験があった。
 4月末から5月への連休期間に少人数のサッカーの欧州駆け足ツアーをした。ブダペストでのハンガリー対ソ連のワールドカップ予選で、涙で国歌を歌うマジャール人の心情を思い、ニースでのニース対サンテチエンヌ――で、コンパクトな中盤にフランス、いや欧州サッカーの74年以降の変革を思い知らされた。
 このツアーのスポンサーとなったアディダス社と話し合って、サンケイスポーツで月1回の特集ページ「3本線のサッカーマンスリー」を夏から始めることにした。編集局長になって、自分の新聞に記事を書くチャンスを失った私にとって、唯一、書くことのできるページができた。そしてまた「釜本邦茂 ストライカーの技術と戦術」という2年がかりの本も10月に出版した。


1977年(昭和52年)の出来事
◎1月 第56回天皇杯決勝、古河4−1ヤンマー
    初の首都圏開催の高校選手権は浦和南がV
◎3月 ワールドカップ予選で、日本は1分け3敗で退く
◇5月 新東京国際空港(成田)建設反対派と機動隊が衝突
◎6月 釜本、日本代表から引退
◇9月 日本赤軍の日航機ハイジャック事件
◎9月 第10回日本リーグが9月8日に開幕
◎10月 奥寺康彦が西ドイツの1FCケルンと契約。日本人のプロ第1号
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年1月23日号)

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