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世界の“常識”を求めて(10)

 昨年の12月29日で77歳となった私の人生とサッカーの歴史を重ね合わせてつづるこの連載は、2年がかりで1977年までやってきた。
 クロニクル(年代記)という表題ながら、現在の試合の感想や紹介したい話なども書き込んだために、いささか進み具合が遅れた感もあるので、これからは少しスピードアップしたいと思っている。


初めての南米取材

 78年は私にとって初めての南米訪問。5月23日に大阪を出て、アルゼンチンでの第10回ワールドカップ(6月1日〜25日)を取材し、帰途にニューヨークに寄って、NASL(北米サッカーリーグ)のコスモスの試合を見た。
 スポーツ新聞の編集局長という“本業”の職場を40日近く離れることになるのだが、幸いサンケイスポーツそのものは販売部数も伸び、広告収入も増大して、フジ・サンケイ(産経)グループのなかでの独立会社として大幅な黒字を計上し、グループの総帥・鹿内信隆の経営――それぞれの新聞を独立させ、現場に責任を持たせる――の成功例となっていた。
 そうしたバックグラウンドと、今回もまた会期中の紙面に何回か広告出稿があるということを理由に、大阪代表の長尾幸太郎が上層部の了解を取りつけてくれた。
 日程も余裕を見て、ブエノスアイレスに入る前に、まずブラジルのリオデジャネイロとサンパウロで、開催国の隣の“サッカー王国”のワールドカップ熱を眺め、あわせてサンパウロにサッカー留学中の水島武蔵(みずしま・むさし)や岩崎眞彌(いわさき・しんや)といった少年たちにも会った。


ワールドクラスの技術

 NHKが中継放送を始めたおかげで、日本国内でも関心は高まり、そのテレビ画面を通して、場内に舞う紙吹雪とマリオ・ケンペスの突進が、この大会の象徴となったが、私にも、ラテンの国でのラテン・サッカーの楽しさは、ベッケンバウアーやクライフといった当代最高のプレーヤーを欠く不満を忘れさせてくれた。
 サッカーマガジンは、77年冬の「アルゼンチンへの招待」に始まり、78年春、夏、秋と別冊を出版した。そのシリーズの第5号「ワールドクラスの技術」(79年冬季号)で、私は連続写真での解説を書く。1秒間24コマのモータードライブによるプレーの分解は、テレビのビデオが普及する前には、ゴルフのフォーム向上などにも役立っていた。
 大住良之編集長(当時)にシリを叩かれながら、ものすごい量のなかから、64シリーズを選んで、マリオ・ケンペスの決勝での先制ゴールやアルゼンチンの3点目、ベルトーニとケンペスの2人による狭い地域の突破からのベルトーニのシュートなど、掲載することができた。
 ちょうど、前の年に出版した「釜本邦茂、ストライカーの技術と戦術」(講談社)をつくるときに、彼のプレーの連続写真を使ったのと同じ手法で、私自身にもプレーヤーのフォームやステップの踏み方、体重の移行などを見極めるのに、とても勉強になった。
 日本サッカーは、古河電工が若い力の充実とともに、トップに上がりながら、その若い力の中心であった奥寺康彦が西ドイツの1FCケルンへ移籍した後、チームの勢いは止まり、フジタがブラジル人選手の導入によって、リーグ優勝を果たすようになっていく。
 ヤンマー、三菱、日立の3強時代から、振興チームを交えての変動期に入っていた。
 国内トップ・リーグ充実の遅れにかかわらず、サッカーの国際化は進んでいた。スポンサーの応援を得たキリンカップ(ジャパン・カップ)が78年に創設されただけでなく、79年には第2回ワールドユース大会が日本で開催されることになった。
 この大会で私たちは“天才”マラドーナを見ると同時に、自ら育成したこの世代のプレーヤーと世界との差も知ることになる。


1978年(昭和53年)の出来事
◎1月 天皇杯元旦決勝はフジタが初優勝(4−1ヤンマー)
     2年目の首都圏開催の高校選手権で帝京が優勝(2回)
◇2月 永大産業が倒産。日本リーグ1年目の永大サッカー部は解散
◇4月 アフガニスタンで軍部クーデター。アフガニスタン民主共和国に国名変更
◇5月 新東京国際空港(成田)が開港
◎6月 ワールドカップ・アルゼンチン大会で開催国が優勝
◇10月 靖国神社が東条英機らA級戦犯を合祀
◇11月 プロ野球のドラフトで巨人・江川卓事件
◎11月 前期、後期の2期に戻した日本リーグで三菱が優勝
◎12月 バンコクの第8回アジア大会で日本代表は1次リーグ1勝2敗で退く
◇12月 イランで大規模な半国王デモ、国王が国外退去
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年1月30日号)

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