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世界の“常識”を求めて(13)

サッカーも見るのですか?

 今年も1月最終の日曜日に大阪国際女子マラソンが行なわれた。優勝は、ケニアのローナ・キプラガードで、タイムは2時間23分57秒。2位は弘山晴美(資生堂)で2時間24分34秒だった。42.195キロという大阪・京都間の距離に匹敵する長いフルマラソンを走る女性のタフさには、ただ脱帽するだけだが、20年前の第1回大会がスタートするときには、日本陸連はあまり乗り気でなかった。その反対の理由に、東京で11月に東京国際女子マラソンがすでに行われているうえに、1月に大阪でレースをしても参加する選手はいないという時期尚早論もあったことを考えると隔世の感がある。
 いまや冬の浪速の風物詩となったこの大阪女子マラソンの開催のエピソードは、紙面の関係で別の機会に譲るが、私のサッカー人生の中では苦い経験、本南道孝理事長をはじめ大阪陸協の人たちや産経や関西テレビの仲間の努力には頭の下がる思いのしたものだ。当時の関西テレビの社長が、京都大のサッカー部のOBの山口興一さん、英国陸協会の役員に「大学時代はフットボール選手で」と紹介すると相手の表情が一気に輝いたのもうれしい思い出として残っている。
 マラソンの関係者に知り合いが増えるのは良かったが、何年か前にトヨタカップの取材で国立に行ったとき、あるテレビ局のマラソン担当のディレクターに、「賀川さんはサッカーもご覧になるのですか」と言われ苦笑するほかはなかった。
 それは国際舞台で低迷し、女子マラソンよりも、視聴率ではるかに劣るサッカー界にいる私にとって、テレビ界からの“しっかりしろ”との警告であったのかもしれない。


スペインとウィンブルドン

 82年1月の大阪女子マラソン成功の後、6月から7月15日まで、スペインのワールドカップ(6月13日〜7月11日)に出掛けた。
 フォークランド紛争の直後だけに、まず英国の空気を知っておきたいと、ロンドン経由でマドリードに入った。初めての24チームとなった拡大大会で、運営も不慣れだったが、地中海川と、大西洋側と、そして内陸部と変化に富む景観と人の気質も異なるというスペインの各地を飛び回り、サッカーの試合を見て歩くという“極楽”のような1ヶ月余りはあっという間に過ぎてしまった。
 大会の第1ラウンドと第2ラウンドの間の中断期間にロンドンまで往復し、ウィンブルドンのテニスを覗いた。マラソンとテニスを担当していたY記者が、英国陸協のマリア・ハートソン女史をはじめ有力者との会合を設定していたこともあった。サッカーとはまた別の“上流”の象徴のテニス、それも天下のウィンブルドンを見てここの歴史とその見事な“保守”ぶりに感銘を受けた。面白かったのは私のメーンコートへのIDカードが、Y記者が「うちのボスが来た」と記者クラブに言うだけで、出してもらえたこと。彼の食い込みの強さもあるのだろうが、サッカーのようにFIFAの組織でことが運ぶのではなく、IDカードは記者クラブの古い記者たちに実権があるのだ。メーンコートで撮影できるカメラマンも、当時は何人と決まっていて、コレもすべて実績がものを言うらしかった。


FAX送信、記録コンピュータ

 スペイン大会そのものは、大本命のブラジルがつまづいて、ロッシの復活したイタリアが優勝。78年優勝チームにマラドーナを加えたアルゼンチンも、2次リーグでブラジルとイタリアに敗れた。イタリアのファウルに焦ったマラドーナも気の毒だったが、ホームでの4年前の生き生きとしたチャンピオンチームが、大西洋を越えると元気の出ないのが不思議だった。連続優勝のためにと、外国への移籍を禁じたのが、良かったのかどうか…。原稿を送る手段として、新しく登場したFAXを使ってみようと、パナソニックに頼んで受信機を編集局に置いてみたが、結局はスペインと日本との通信状況が悪くて、一回使用しただけ。またまた電話で吹き込んだものだ。
 この大会から記録がコンピュータに入ることになったが、毎日の新しいものはインプットできず、昔の記録や個人データだけ。それもプリンターが遅くて時間がかかった。


1981年(昭和56年)の出来事
◎1月 天皇で日本リーグ2部の日本鋼管が読売クラブを破って初優勝
     第60回高校選手権大会は、埼玉の武南が初優勝
◇1月 第1回大阪女子マラソン開催
◇2月 日航機が羽田空港着陸直前に墜落
◇4月 アルゼンチンが英領フォークランド諸島を占領
◎6月 スペイン・ワールドカップが開催
◎10月 日本サッカーリーグは三菱が優勝
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年2月20日号)

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