賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >世界の“常識”を求めて(14)

世界の“常識”を求めて(14)

海外でのニュースポーツ

 本業のスポーツ紙の仕事は、まずまず順調だった。1970年代後半から80年代初めにかけて、サンケイスポーツ新聞は、近畿一円のJRや私鉄の駅売店などでの販売、いわゆる即売では、圧倒的なシェアを誇り、ナンバーワンとなっていた。
 世間一般の暮らしが良くなり、余暇に目を向ける余裕が出始めた時期だった。
 米国では70年代にテニス・ブームが、80年代にはジョギング・ブームが訪れていた。74年のワールドカップ西ドイツ大会取材の帰途、ニューヨーク近郊の知人宅を訪れたとき、新しい高層アパートに隣接するテニスコート群を眺め、80年にイタリアでの欧州選手権の後、ワシントンでNASLのディプロマッツとクライフを取材したとき、昼休みに公園や道路を走るジョガーの多さに目を見張った。
 そうした経験が、紙面づくりにも生きた。スポーツ紙のメーンの商品である野球の記事の質を高め、量を増やすとともに、ゴルフをはじめ新しく人気の出た分野を積極的に扱った。地域密着という基本方針の強化も、欧州のビッグスポーツ、サッカーのクラブの成り立ちやリーグを見たうえで、確信を深めたからだった。
 プロ野球の阪神タイガースを大きく取り上げるのは、東京(巨人)に対抗する関西という地域の意識からであって、“タイガースを書けば売れる”からではない、と繰り返し仲間に説明した。


紙面作りもサッカー式

 通勤電車の中で、スポーツ紙を読む人が増え、NHK(大阪)がそれを一種の社会現象として特集番組を制作した。スポーツ5紙それぞれを取材して、画面に登場させるのだが、サンケイスポーツは夜の紙面会議の模様が取り上げられた。皆が活発に意見を出し合うところが面白いというのが理由だった。
 日々の紙面会議は当時のサンケイスポーツ(大阪)の象徴といえた。担当記者やデスクが意見を出し合い、経理部長のところで一つの線が出来上がるやり方は、記者や現場の判断を重んじる方針――の表れでもあった。サッカーで育った私は、ボールを持った者の判断で次のプレーを決めるやり方が、スポーツ紙に向いていると思っていた。
 こうした日々の仕事は、いい仲間に恵まれ業績が上がれば、もともと好きなだけに際限がない。
 サッカーを書くことも、海外でのワールドカップや欧州選手権などのビッグな大会などで新しい目が開け、サッカーマガジンなどの雑誌での連載の場を与えられ、ますますのめり込んでいく。
 そこへ、大阪女子マラソンという大イベントが加わった。新しいもの好きであっても、初めての仕事は気を使うし時間も食う。82年の暮れは、マラソン事務局の仕事が終わって大晦日に帰宅するとき、急に歯痛が起こってしまい、深夜に薬局を探してアスピリンを飲み、寝正月を決め込んだものだ。
 こういう生活だったから、身辺のことには手が回らなくなる。


大転換の84年

 83年はともかく過ぎたが、84年1月、大阪女子マラソンが第3回大会を迎える前日の28日に、母親寿美が去ってしまった。体の異常を訴え、腸閉塞(ちょうへいそく)の診断で手術をしたが、衰えた体力には無理だったのか、回復できなかった。80歳を越えてから、急速に衰えを見せ始めた母に気配りしたつもりだったが、もっと積極的に医療を勧め、体力をつけるようにすべきだったのに。後悔先に立たず――。
 遺体の傍らでほぞをかむ思いの私の前のテレビは、増田明美とカトリン・ドーレの競り合いを映していた。雪に見舞われた近畿の中で、マラソンコースには不思議にも降雪はなかった。
 実はこの年に、私は編集局長を辞して新しい会社、大阪サンスポ企画へ移る決心をしていたところだった。社内人事を活性化するのと、自分も新しい仕事に取り組むことにしていた。大きな転換期でもあった。


1983年(昭和58年)の出来事
◎1月 天皇杯決勝で日本サッカーリーグ2部のヤマハが1−0で1部のフジタを破って初優勝。前年の日本鋼管に続く2部の優勝
    第60回高校選手権大会は清水東が韮崎を破って初優勝
◇4月 NHKの朝のテレビドラマ「おしん」が高視聴率
◇5月 秋田沖の地震による津波で死者104人
◇6月 三菱の尾崎加壽夫が西ドイツへ。奥寺に続く2人目の日本人プロ
◎9月 84年ロサンゼルス・オリンピックのアジア予選で日本は予備戦でフィリピンに2勝し、台湾、ニュージーランドとのホーム・アンド・アウェーを行なって2位となり第2次予選進出(〜10月)
◇10月 ロッキード裁判で田中角栄元首相に懲役4年の実刑判決
◎11月 4月に開幕した日本サッカーリーグで読売クラブが初優勝
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年2月27日号)

↑ このページの先頭に戻る