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世界の“常識”を求めて(16)

市民ロードレースの創設

 84年から企画会社の社長となった私は、8月の釜本の引退試合の後、11月に芦屋国際ファンランの開催に関わる。大阪女子国際マラソンによって、一般道路を使用して走るイベントのインパクトの大きさを知り、市民参加のロードレースを阪神間でも始めようと考えたのだった。
“大阪”の創設に最も力のあったN記者が中心となって、地方自治体と組んで、さまざまな障壁を乗り越えてイベントを作り上げる面白さは格別だった。勢いのあったダイエーの協賛もありがたかった。
 芦屋での成功を皮切りに尼崎、西宮、神戸と次々にロードレースを始め、86年にアフリカの飢餓を救うために行なわれた世界的規模の「レース・アゲインスト・タイム」に参加することで、自分たちのロードレースの「チャリティー・ラン」としての方向性が定まった。
 翌年から“芦屋”は4月に開催日を移すのだが、のちに日本のロードレースに新しい“チャリティー”の風を吹き込むスタートとして、84年11月の芦屋は、新聞作りから離れた私の人生の転換期での得難い経験となった。


絶頂期のマラドーナ

 日本のサッカーは、トップリーグで、「プロを念頭に置いた」読売と日産が2強となっていた。
 85年に神戸で開催されたユニバーシアードは、いったん外されかけたサッカーが、関係者の努力で正式種目となり、日本は4位。韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の参加で、入場者が多く、市の関係者にサッカーは客が入ると印象付けたのは前進の一つ。
 ただしトップチームは、ワールドカップ予選で韓国に2敗してアジア東地区の突破はできなかった。85年11月、東京での第1戦で0−2の後、木村和司のFKが直接ゴールして語り草となったが、韓国との力の差は、また開いた感があった。
 86年のメキシコ・ワールドカップは、マラドーナの“5人抜き”や“神の手ゴール”があって、彼をクローズアップする大会となったが、第2回ワールドユースで19歳のマラドーナを見て以来、81年コパ・デ・オロ、82年ワールドカップを経て頂点に達した彼を眺めてきた者は、そのプレーを分析し反芻する楽しさにしばらく酔った。


ユニセフ基金のために

 マラドーナと彼の所属するナポリを招いて、日本で試合をさせる企画をHさんから聞いたのが8月。
 最盛期のスターを日本で多くの人に見てもらうことは素晴らしい。ただし、これもすでに私のスポーツイベントの企画のテーマとなったチャリティーとすることにして、ユニセフ(国連児童基金)の駐日代表部、日本ユニセフ協会に申し入れて、1946年創設のユニセフの記念事業で「ユニセフ創設40周年記念」と銘打って電通と合同で仕事を進めた。
 試合日は、87年1月24日土曜日。この日は、イタリア代表の試合があるのでセリエAは休みだから、マラドーナとナポリの(イタリア代表でない)選手は、来日できるはずだった。交渉しているうちに秋が深まり、ナポリの成績が良くてセリエAの優勝の声も出始め、この時期での来日は不可となる。
 マラドーナ側の「南米選抜」という提案を受け、南米連盟のレオス会長のおかげで、連盟の承認を得て、監督はカルロス・ビラルドとなり、彼とプロモーションの努力で、エジーニョ(ブラジル)、デルガド(パラグアイ)が加わり、マラドーナとともに南米の3人の代表を軸とするチームができた。
 その後、セリエAの試合でマラドーナが左足を負傷するという“事件”もあったが、包帯姿で来日した彼は立派に試合を務めた。
 こうして、「ユニセフ40周年記念、ゼロックススーパーカップ、南米選抜対日本リーグ選抜」は国立競技場で観客を喜ばせ(南米1−0)日本協会は収益金の一部の10万ドル(1500万円)を日本ユニセフ協会に贈ることができた。
 この年、世界に配送されたユニセフの公報に、「国立競技場に初めてユニセフの旗が掲げられた。JFAからの基金は、メキシコの子どもたちの救援にあてる」ということが報告されている。


1985年(昭和60年)の出来事
◎1月 第64回天皇杯決勝は読売クラブが古河を2−0で破り初優勝。84年日本リーグと2冠
◇3月 「科学万博つくば85」開幕
◇8月 日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山山中に墜落。520人死亡
◎8月 ユニバーシアード神戸大会。日本は4位
◇9月 メキシコ大地震
◎11月 ワールドカップ・メキシコ大会アジア東地区予選決勝で韓国に2敗して退く
◇11月 レーガン(米国)、ゴルバチョフ(ソ連)の首脳会議
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年3月13日号)

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