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世界の“常識”を求めて(17)

レース・アゲインスト・タイム

 87年の2月にマラドーナと南米選抜を招いた日本選抜との試合に「ユニセフ創立40周年」と銘打ったのには伏線があった。
 その前年の5月に、英国のロック歌手、ボブ・ゲルドフと彼の仲間が「アゲインスト・タイム」と称する世界中で同時に走るランニング・イベントを提唱して、日本にも呼びかけてきた。
 彼らは85年に「アフリカを飢えから救う」ために、ミュージシャンを集め、ロンドンとワシントンで大規模なコンサートを開いて、多額の募金を集め、救援活動をした。そして、今度は“走る”ことで人々の関心を再びアフリカに向けさせようとした。
 呼びかけを受けた日本陸連は、これを某新聞社に連絡したが、ちょうどその年の5月には、東京サミットがあり、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃夫妻の来日も予定されていて、首都圏では警備が大変ということで、この企画は不可能にみえていた。
 大阪サンスポ企画でランニングのイベントを創設したN君とその仲間のO女史からの提案を受けて、私がユニセフ駐日代表を訪れ、東京でだめなら関西でやろうとなった。ダイエーのバックアップにより、西宮でこれを実施するまでに3ヶ月もなかったが、西宮市の八木市長の英断で、ことが進んでいった。そして「レース・アゲインスト・タイム(時間との戦い、アフリカの飢餓は一刻の猶予も許されない)」に賛同する世界72ヶ国2000万人の参加者とともに、西宮で5000人のランナーが集まり、病めるアフリカの子どもたちに愛とともに、1200万円の募金を共催のユニセフに贈ることができたのだった。
 翌日の朝日新聞が一面で取り上げたのをはじめ、各紙とも大きく報道したから、アフリカへの関心、あるいは恵まれた者が恵まれない者に手をさしのべる「世界の常識」に、日本のランナーたち、スポーツ愛好家たちも目を向けるきっかけになったかもしれない。


スポーツとチャリティー

 私自身は、1977年に西ドイツでバイエルン・ミュンヘンの試合を見たとき、キックオフ前にベッケンバウアーやゲルト・ミュラーといった大スターが車イスの子どもにボールを手渡す自然な姿と、子どもたちの笑顔を見た。それ以来、スポーツとチャリティーをどういう形で自分の周囲のなかで取り組むかを考えていたのだが、ペンや口だけでなく、イベントを開催することで一つの道を開くことができたのだった。
 八木市長の「私の信条は、“愛の市政”だが、それを具現化するイベントを作ってくれて、とても感謝している」という言葉が、私には大きな励みとなった。
 これをきっかけに、私たちの阪神間4都市のランニング・イベントは、ユニセフと連動するようになった。やがて、公共の道路を使用するのに、スポンサー名を大会明の冠(かんむり)にする“冠マラソン”を止めさせようとの案が出たとき、神戸、芦屋、西宮、尼崎のレースすべてに「ユニセフカップ」の名を付けることを日本ユニセフ協会の承認を得て、いまも名乗っている。ときのユニセフ協会の会長、橋本マサさん(故人)は、橋本龍太郎元首相の母親で、マラドーナの試合のときも、招待席を用意したのに孫たちのためにと、高い入場券を買ってくださる人だった。


コパ・アメリカとコロンビア

 87年2月の試合で負傷を抱えてやや動作がゆっくりだが、それだけに正確無比のボールタッチを見ることができた私は、87年のコパ・アメリカ(南米選手権、6月下旬〜7月中旬)でマラドーナをもう一度見ておきたいと願うのは、自然なことのように思われた。
 日本と地球の反対側へ3度目のサッカーの旅は、マラドーナも大会そのものも、いささか期待はずれだったが、コロンビアのバルデラマのキープとパスを軸にした魅力的なチームや、チリの激しさなどを見ることができたのと、アルゼンチンのビラルド監督と何度も会い、時間をかけて話を聞いたことが何より。南米連盟のレオス会長から、サイン入りの南米選手権史を頂戴し、アルゼンチン協会のグロンドーナ会長からワールドカップのレプリカをもらったのも、この旅の彩(いろどり)となった。


1986年(昭和61年)の出来事
◎1月 第65回天皇杯の元旦決勝は、日産がフジタに2−0で勝って、2度目の優勝
    第64回高校選手権で清水商が決勝で四日市中央工を2−0で破り、2度目の優勝
◇1月 米国スペースシャトル、チャレンジャーが打ち上げ直後に爆発。乗員7人死亡
◇2月 フィリピンの大統領選挙で当選したマルコスが不正選挙を問われて、国外脱出。アキノ政権スタート
◇4月 ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故発生
◇5月 英国のチャールズ皇太子、ダイアナ妃夫妻が来日
◎6月 ワールドカップ・メキシコ大会でアルゼンチンが2度目の優勝(5月31日〜6月29日)
◇9月 社会党委員長に土井たか子当選。初の女性党首。
◎10月 第22回日本リーグ開幕(87年5月17日まで)スペシャル・ライセンス選手(プロ)も取り入れ、奥寺康彦、木村和司が第1号に
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年3月20日号)

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