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世界の“常識”を求めて(20)

Jリーグ誕生へ

 1991年(平成3年)に入ると、日本サッカーはプロ・リーグ設立へ向かって加速し始めた。2月14日に参加10団体が発表された。
 住友金属(茨城県鹿島町=現・鹿嶋市)古河電工・JR東日本(千葉県習志野市)三菱自動車(埼玉県浦和市=現・さいたま市)読売クラブ(神奈川県川崎市)日産自動車(神奈川県横浜市)全日空(横浜市・九州全域)清水FC(静岡県清水市)トヨタ自動車(愛知県名古屋市)松下電器(大阪府)マツダ(広島市)。
 日本リーグ2部の住友金属と、チームのない清水FCが選ばれたのも、新しいJリーグの理念の表れ。ヤンマー、ヤマハ、日立などは条件が整わず、新しく生まれるJFL(日本フットボールリーグ)に入り、2年目以降を目指すことになった。
 Jのスタートは93年(平成5年)5月と決め、また92年にはナビスコカップを最初の公式戦とすることになった。
 日本代表は7月の日韓定期戦(長崎)で0−1と敗れてしまう。長い年月をかけた少年時代からの育成の成果で、選手たちはボールを扱う技術という点では、韓国よりも上手になっていた。ラモスやカズらのブラジル育ちの加入もあって、久しぶりの勝利も期待されたが、韓国側の守り重視の戦術と、ボールの奪い合いでの粘り強さに負けた。凹凸が多く芝も不良のピッチも、せっかくの技術優位を減殺した。
 日本代表の横山謙三監督は辞任、翌年にハンス・オフト(オランダ)の外国人監督が誕生する。


オフト監督の効果

 92年に入ると、プロ・リーグへの期待と、日本サッカーリーグの最終年度の好試合がスタジアムをにぎやかにする。オフト監督の明快なスピーチは、プロ化を前に急増したメディア関係者に強いインパクトを与え、国際試合後の記者会見は一種のサッカー教室の感があり、彼の説く「アイ・コンタクト」や「コンパクト・サッカー」といった用語は新鮮な流行語のようになった。
 その考えが代表に浸透するとともに成果が表れた。92年8月に北京で行なわれたダイナスティ・カップで韓国、中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との4者リーグで、2勝1分け。韓国とのプレーオフで2−2の後、PK戦を4−2で制して海外の大会での初優勝を記録した。
 そして10月に広島で開催されたアジアカップでUAE、北朝鮮と引き分け、イランを破って準決勝に挑んだ。準決勝では中国に3−2で勝ち、決勝のサウジアラビア戦も高木のゴールで1−0。Jリーグ開幕を翌年に控えて、サッカーの人気上昇の大きな力となった。


北欧への旅

 こうした日本サッカーの大きなうねりを見ながら、92年6月の欧州選手権(10〜28日、スウェーデン)を見ることができたのは幸いだった。
 Jリーグを目指す日本の各チームからも、大会の見学と武者修行を兼ねてスウェーデン入りしているところがあった。清水エスパルスはレオン監督の体作りの過程で、選手たちは「エスパルスは陸上競技部です」と言いながら走り続けていた。
 ユーゴスラビアがボスニアなどと戦争を起こしたとして国連の制裁を受け、そのためストイコビッチをはじめ、人材のそろっているチームが参加できず、代わって地域予選2位のデンマークが出場するハプニングがあった。
 しかし、そのデンマークが1次リーグでイングランドと引き分け(0−0)、スウェーデンに敗れ(1−2)、2位となって、準決勝に進む。そして、88年欧州チャンピオンのオランダ、90年世界チャンピオンのドイツを倒して、初優勝してしまった。
 ラウドルップ弟のドリブル、全員のタフな動きとGKシュマイケルの超人的な守りが大きな力となった。
 私には90年ワールドカップで不調だったオランダの3人衆、フリット、ファンバステン、ライカールトが揃っていいプレーをしたこと、若いベルカンプという素材を知ったことが収穫だった。
 この北欧への旅は、また私にとってはスウェーデンに逆転勝ちした1936年ベルリン・オリンピックの先輩たちへの追憶でもあった。当時の記録を、いまなおその“敗戦”を伝承しているこの土地の人の口から「日本の巧みさ、早さ」を聞くことができたのだった。


1991年(平成3年)の出来事
◎1月 天皇杯決勝では松下電器が日産を破って初優勝
    高校選手権決勝は、九州勢同士の対決となり、国見が鹿児島実業を破り優勝
◇1月 USA中心の多国籍軍が、イラク攻撃(2月27日にクウェート解放)
◎2月 プロ・リーグの10団体が決定
◇4月 雲仙普賢岳が噴火
◎9月 日本サッカーリーグ(JSL)が最後のシーズン開幕(9月15日〜92年3月29日)
◎11月 社団法人日本プロサッカーリーグ設立
◇12月 ソ連解体。独立国家共同体が誕生
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年4月10日号)

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